本稿では、原子力三原則の成立に関して、日本学術会議関係者の視点からの議論を中心とした資料を主として紹介している。
原子力三原則をめぐる日本学術会議での議論は、原子力研究が強くdual use的性格を持つがゆえに、「軍事」目的に利用されず、「平和」目的にのみ利用されるようにするにはどのようにすれば良いのか、ということが根本的問題意識にあった。すなわち原子力三原則をめぐる議論の歴史的展開の分析に当たっては、原子力をめぐる諸原則が「原子兵器に関する研究」をおこなわない、おこなわせないための「手段」的性格を持つということに留意する必要がある。
日本学術会議第17回総会声明(1954)において原子力三原則の規定の前に、「わが国において原子兵器に関する研究を行わないのは勿論,外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならない」という文言が置かれていることもそうした視点から理解する必要がある。 またそうした日本学術会議の決意は、原子力基本法における原子力三原則の規定が入った第二条における「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、・・・これを行うものとし」という表現の中にも反映されている。
なお原子力研究を「平和」目的に限るということは現在にいたるまで日本において広く合意されている。その意味で日本学術会議における原子力三原則の議論は大きな歴史的意義を持つものである。
しかしながら日本学術会議では、<「軍事」目的の原子力研究をおこなわない、あるいは、おこなわせない>という目的を実現するための手段として原子力三原則が位置づけられていたため、「平和」目的の原子力研究、すなわち、大学、公的研究機関、民間企業における原子力研究のあり方との関係で原子力三原則をどのように適用・運用すべきなのかという点での検討が不十分であった。日本学術会議会員の中心は、大学に属する科学者であるため、特に民間企業における原子力研究のあり方との関係における原子力三原則の吟味・検討が十分にはなされていない。
下記資料紹介で記したように、「自主」原則は「すべてを外国に頼るべきではない」という否定的表現に止まるため、「ある特定の時点で何をどこまでをどのように日本自前でやるべきなのか?何をどこまでをどのように外国に頼るべきなのか?」に関する具体的指針の作成には役立てなかった。また「民主」原則や「公開」原則は、基礎研究に関する原則としてはさほど問題ではないが、民間企業のコアコンピテンス(中核的競争力)に関わる応用研究・開発研究や企業秘密に関する原則としては文字通りには適用困難なものであった。こうしたことは日本学術会議内部の議論の中でも認識されていた。
また「公開」原則に関して、中曽根康弘は、衆議院・科学技術振興対策特別委員会(1955年12月13日)における原子力基本法の審議の中で、現代における「アンチコモンズの悲劇」問題に関わるような議論を特許との関係で展開しているが、民間企業における原子力研究との関係で「公開」原則の問題を具体的に論じられることはあまりなかったように思われる。
そうした結果として、民間企業における原子力研究のあり方や日本の原子力発電の実用化のあり方に対して原子力三原則は十分には機能しなかったように思われる。吉岡斉(旧版1999,新版2011)『原子力の社会史』が「戦後全体をとおして、それが軍事目的であることを公言する形で、日本が独自の原子力開発利用活動を展開したことはない。」(p.18)とする一方で、「(原子力三原則は)核エネルギー事業の商業化という事態を想定しておらず、したがって営利事業に三原則をそのまま押しつけることは無理であった。すなわち「公開」原則は企業秘密保護の原則と抵触し、「民主」原則は企業研究がアカデミック・サイエンス型の研究組織をとらないのでガイドラインとしての意味が乏しく、「自主」原則は、それこそ企業の自主的判断に委ねられるべき事柄であった。」(p.79)と指摘し、「「三原則」の提唱・定着過程は確かに、日本の原子力体制の草創期の、一つの重要なエピソードではあるが、それ以上のものではない。・・・「三原則」は周辺的エピソードの一つにとどまるのである。」(p.79)と位置づけているのもあながち間違いとは言えない。
- 武谷三男(1952)「日本の原子力研究の方向」『改造』1952年11月増刊号
1952年7月25日の日本学術会議第51回運営審議会で茅誠司(日本学術会議副会長)による「政府に対する原子力委員会設置申し入れ」提案が承認され、伏見康司が第13回総会に諮る原案の起草を担当したことが物理学者の間で大問題になった。武谷三男はそうした動きに対する自らの見解を表明するために、本稿を1952年10月初めに書き記した。
本稿では、被爆国日本として、「日本人の手で原子力の研究を進め」ること、平和目的の研究に限定すべきこと、「平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもって」いることが最初に述べられている。
「公表」原則は「日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである」、「外国の秘密の知識は一切教わらない」、「外国と秘密な関係は一切結ばない」という形で、「民主」原則は「日本の原子力研究所の如何なる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のため如何なる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。」という形で主張されている。
「自主」原則は、明確な形では主張されてはおらず、「日本人の手で原子力の研究を進め」ることという文言の中の含意として暗に触れられているに過ぎない。国立国会図書館デジタルコレクションに会員登録していれば、ログインして下記URLから、武谷三男, 星野芳郎(1958)『原子力と科学者』朝日新聞社,pp.321-322に再録された本論文をオンラインで読むこと、および、ダウンロードができる。そこで私は原子炉建設にさいして、厳重に次のような条件を前提とすべきで、これは世界に対して声明し、法律によって確認さるべきだと思う。
日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行わない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所の如何なる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のため如何なる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。以上のことを法的に確認してから出発すべきである。 - 伏見康治(1954)「原子力憲章草案」(伏見康治(1989)『時代の証言 – 原子科学者の昭和史』同文社、pp.231-232再録)
本文書は、第一条で「平和」目的への限定を、第二条および第三条で「公開」原則を、第四条で「民主」原則に触れている。
「自主」原則は明確には述べられてはいない。第五条における「(原子力研究開発利用施設に対する)外国人の投資を許さない」という規定の中に限定的に触れられているだけである。日本国民は、原子爆弾によって多くの同胞を失った唯一無二の国民として、世界諸国民と共にこの惨虐な兵器が再び使われることなく、科学の成果が人類の福祉と文化の向上のために開発利用されることを強く祈念する。日本国民は、原子力が将来の国民生活の重要な基盤のひとつとなることを期待し、自ら原子力研究開発利用に進む高逼な意図をもっている。この意図を実現するために、その事業の大綱を日本国憲法の精神にのっとり以下の条項によって規正する。第一条 原子力の平和利用を目的とし、原子兵器についての研究開発利用は一切行わない
第二条 原子力の研究開発利用の情報は完全に公開され、国民は常に十分の情報に接しなければならない
第三条 諸外国の原子力に関する秘密情報を入手利用してはならない
第四条 原子力研究開発利用の施設に参与する人員の選択に当たっては、その研究技術能力以外の基準によってはならない
第五条 同施設に外国人の投資を許さない
第六条 原子力の研究開発利用に必要な物資機械の輸入には通常の商行為の方途以外の道を使ってはならない
第七条 分裂性物資の国内搬入、国外搬出については、国会の承認を必要とする附
政府はこの憲章の精神にのっとり、原子力法案を作製し、原子力委員会を設けて原子力事業の統括奨励にあたらしめなければならない。原子力法案の作製、原子力委員会の設置については、原子力がいまだ研究の端緒にあるにすぎない事情を考慮し、日本学術会議に諮問して科学者の意向を強く反映しなければならない。 - 日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」(1954/3/20)
本文書は、同委員会委員長の朝永振一郎が第三十九委員会(原子力問題専門委員会)委員長の藤岡由夫に提出した文書である。その内容は、中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7)のpp.27-28に紹介されている。
本文書では、「不可欠の原則」として三点が挙げられているが、内容的には第1点目が「平和目的への限定」、第2点および第3点が「公開」原則・「民主」原則に関わるものである。すなわち、「あらゆる分野の数多くの研究者の衆智を集めて始めて可能になる」という文言は、原子力研究は応用的研究として数多くの様々な科学領域・技術領域を総合した研究となる、ということを示唆したものである。そしてまた最近のオープン・イノベーション論でにおいても強調されているように、数多くの様々な科学領域・技術領域を総合する開発研究の効率的遂行のためには、「研究の秘匿」ではなく「研究の公開」が有用である、という論理展開になっている。
また本文書においても「自主」原則は、武谷三男(1952)「日本の原子力研究の方向」や伏見康治(1954)「原子力憲章草案」などの論考と同じく、明確な形では述べらてはいない。ただし少し強引な解釈ではあるが、軍事研究や民間企業における製品開発研究のように強い秘密保持制約を受けた原子力研究では「わが国に根をおろしたものにならない」とか、「外国から秘密のデーターを受けて研究する」ことは短期的には有効であるが、「長い目でみればマイナスである」とかいった文言は、「自主」原則を間接的な形で暗に示すものと言えなくもない。
すなわち、強い秘密保持制約を受けた原子力研究では「日本に根をおろした」研究=「自主」的研究が育たない。「外国から秘密のデーターを受けて研究する」といったキャッチ・アップ型(追いつき型)=追従者型研究戦略では、機能面や性能面で他国に対する競争優位を持った研究力育成ができず、原子力に関していつまでも他国に「追随し続ける」だけで「追い越す」ことはできない。その意味で「自主」原則を追求しないことは長期的視点からは日本の国益にとってマイナスである、というような論理構成の中で暗黙の裡に「自主」原則が主張されているに過ぎない。「原子力平和利用は国民の福祉増進を目的として行われねばならず、そのためには、研究が正しい方向に健全に発展し、速かにわが国に根をおろして国民のものになることに留意せねばならない。研究の一部を分担する核物理学者として自信と責任をもって日的達成に協力し得るために、次の三点を不可欠の原則と考える。一、研究の目的からいっても、研究者が良心の圧迫なく協力し得るためにも、兵器の研究はすべて行わないとの保証が必要である。
二、この研究は、あらゆる分野の数多くの研究者の衆知を集めて始めて可能になるので、常に研究状況が公表され、意見とデータの自由な交換によっていつでもいかなる研究者もがその知識と技術を提供して協力を得る素地を作らねばならない。発表が秘密という制限を受け、研究が閉じた集団の中でひそかに行われるのでは、遅々として進まないか不健全なものとなり、決してわが国に根をおろしたものにならないであろう。外国から秘密のデータを受けて研究することは一時の速度を加えるには役立つかもしれないが、長い目でみればマイナスである。
三、真に研究能力・技術能力ある研究者に対しては、単に情報が示されるだけでなく、誰でも実際の研究に参加し協力することをこばまないことが必要である。真に能力ある研究者の参加を阻害し門戸を閉じるようなことがあってはならない。上の原則がみたされず、自由な空気の中で研究を進めることが出来ないなら、研究の発展は著しく阻害され、研究者は自信と責任もって協力できないであろう。以上の点は、原子力といわず近代科学の基礎として不可欠の原則である。原子力においてはとくに始めを正しくするという意味もあって強調する。
以上の観点から、原子力憲章伏見草案(附一)第一〜四条のいわんとするところを支持する。第五〜七条は必要との印象をもつが、われわれの立場と能力を越えることなので言及しない - 日本学術会議 第17回総会 声明(1954)「原子力の研究と利用に関し公開,民主,自主の原則を要求する声明」1954年4月23日
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/01/03-02-s.pdf「自主」原則は、本声明以前まで明確には定式化されてはいなかった。本声明においてはじめて、「公開」原則、「民主」原則、「自主」原則という3原則そろってが明確に規定された。
本声明における「自主」原則の規定は、「原子力の研究は全く新しい技術課題を提供するものであり,その解決のひとつひとつが国の技術の進歩と国民の福祉の増進をもたらす」ものであるから、「日本国民の自主性ある運営の下に」原子力研究が行われるべきことであるという筋立てになっている。先にも述べたが「自主」原則のこうした規定は、日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」の中で暗に触れられていた、他国に対する日本国の持続的な相対的競争優位性の確保手段としての「自主」開発との関連で理解することができる。「第19国会は昭和29年度予算の中に原子力に関する経費を計上した.原子力の利用は,将来の人類の福祉に関係ある重要問題であるが,その研究は原子兵器との関連に•おいて急速な進歩をとげたものであり,今なお原子兵器の暗雲は世界を蔽っている.われわれは,この現状において,原子力の研究の取扱いについて,特に慎重にならざるを得ない.
われわれはここに,本会議第4回総会における原子力に対する有効な国際管理を要請した声明,ならびに第19国会でなされた原子兵器の使用禁止と原子力の国際管理に関する決議を想起する.そして,わが国において原子兵器に関する研究を行わないのは勿論,外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならないとの堅い決意をもっている.
われわれは,この精神を保障するための原則として,まず原子力の研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され,国民に周知されることを要求する.この公開の原則は,そもそも科学技術の研究が自由に健全な発達をとげるため欠くことのできないものである.
われわれはまた,いたずらに外国の原子力研究の体制を模することなく,真に民主的な運営によって,わが国の原子力研究が行われることを要求する.特に,原子力が多くの未知の問題をはらむことを考慮し,能力あるすべての研究者の自由を尊重し,その十分な協力を求むべきである.
われわれは,さらに日本における原子力の研究と利用は,日本国民の自主性ある運営の下に行われるべきことを要求する.原子力の研究は全く新しい技術課題を提供するものであり,その解決のひとつひとつが国の技術の進歩と国民の福祉の増進をもたらすからである.
われわれは,これらの原則が十分に守られる条件の下にのみ,わが国の原子力研究が始められなければならぬと信じ,ここにこれを声明する. - 内閣諮問機関「原子力利用準備調査会」綜合部会における1954年9月24日申し合わせ
会長:緒方竹虎副総理、副会長:愛知揆一経済審議庁長官、委員:大蔵大臣、文部大臣、石川一郎経団連会長、茅誠司日本学術会議会長、藤岡由夫日本学術会議第四部会長。
その内容は、中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7)のpp.27-28に紹介されており、下記のように「公開」原則、「民主」原則、「自主」原則という3原則に関連する内容が列挙されている。我が国における原子力の研究開発を進めるに当っては、平和的利用を根本原則としているので、下記の諸点に留意するものとする。一、原子力の研究開発に関しては、可及的に公開するよう努めること
二、原子力の研究開発に関しては、衆知を集めるよう努力すること
三、原子力の研究開発に関しては、努めて我国の自主性を損わないようにすること - 日本学術会議 第18回総会 申入(1954)「原子力の研究,開発,利用に関する措置について」1954年10月2日
第17回総会声明に続き、第18回総会では原子力の研究・開発・利用に関して下記の7点の申入がなされた。第1点が「平和目的」への限定、第3点が「公開」原則、第4点が「民主」原則・「自主」原則に関わるものである。原子力の研究・開発・利用に関する措置について(申入)
わが国で,原子力の研究およびその開発,利用をはじめるについては,政府において,少なくとも次の諸条件を保障するための措置をとられたく,ここに本会議第18回総会の議により申し入れます。
1. 原子力の研究・開発・利用は,あくまで平和目的に限定し,その軍事的利用に導くおそれあるものの介入は,絶対にこれを排除すること。
2. 原子力の研究・開発・利用は,もつぱら国民の福祉の増進,わが国の経済自立への寄与を目的とすること。
3. 原子力の研究・開発・利用およびその成果に関する重要な事項は,すべて国民がこれを知ることのできるように,公開されること。
4. 原子力の研究・開発・利用は,あくまで民主的な運営のもとに自主的に行われ,安易な外国への依存は,これを避けること。
5. 原子力の研究・開発・利用に関係する機関の要員については,日本国憲法によつて保障された基 本的人権を,とくに十分尊重すること。
6. 原子力の研究・開発・利用については,それにともなう放射線による障害に対する対策,特にその予防のために,予め萬全の措置を講ずること。
7. 核分裂性物質または核分裂性物質の原料となる物質は,国民の利益のために,厳重に管理されるべきこと。 - 衆議院・科学技術振興対策特別委員会(1955年(昭和30年)12月13日) 中曽根康弘議員の法案趣旨説明および質問応答
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=2¤t=1冒頭で、下記のように、世界における原子力発電開発の見通しに関する極めて楽観的見解を述べ、日本がそうした世界的潮流に乗り遅れるべきではないことを法案提出の趣旨として強調してている。
また「自主」原則の意義に関連する事柄として、「各国において非常な個性を持ったやり方をやっている」、「(世界の主要国は)みんな個性を持ったやり方で(原子力開発を)進めて」いるとし、日本においても日本の特殊性に対応した自主的=個性的対応の必要性を強調している。本原子力基本法案は自由民主党並びに社会党の共同提案になるものでありまして、両党の議員の共同作業によって、全議員の名前をもって国民の前に提出した次第であります。
最近、各国における原子力の利用発達というものは、きわめて目ざましい速度で進んでおります。特に電力用の原子力の利用につきましては、イギリス、フランス、アメリカ等において目ざましい進歩をいたしておりまして、たとえば、すでに、イギリスにおいては、十カ年計画で百五十万キロの電力を開発する、二十カ年計画で四千万トンの石炭を原子力で代用しようという雄渾なる計画を進めております。フランスにおきましても、すでに発電用の一高炉五千キロワットのものが本年末に完成する予定でありまして、来年度にかけてさらにもっと大きなものを建設する予定である。三年以内にロアール川の渓谷に十万キロワット以上の発電炉を建設しょうという計画が電力会社などに進められております。アメリカにおいては、五年以内に二百万キロ程度の原子炉を開発するという計画を進めております。(中略)さらに、予算におきましては、たとえば、フランスにおきましては、毎年二百億円くらいの経費を出しております。従来は百億円ずつ出しておったのでありますが、本年以降四カ年間さらに百億円ずつ追加するということをきめまして、毎年二百億円の経費をこれに投じておる。イギリスにおきましては平均して五百億円の金をこれに投じておる。アメリカにおきましては年間八千億円の金をこれに投じておる。こういうような力の入れ方をしておるのであります。
そうして、すでに、各国におきましては、実験炉の段階を越しまして、動力炉の段階に入っておる。そうして、この原子力の問題は、動力源、エネルギー産業の問題として提起されておるのであります。この点はわが国と著しく異なっております。と同時に、各国において非常な個性を持ったやり方をやっておりまして、その国情に合う機構なり研究態勢を進め、研究題目を探してやっておるのであります。たとえば、ヨーロッパ系統のやり方は、濃縮ウランを使わないで、天然ウランをとって、そうして黒鉛を中心としたやり方であります。アメリカの系統は、濃縮ウランを使った重水等のやり方であります。これはみんな国情によって自分たちの国の個性を出しているということと同時に、この利用の範囲におきましても、たとえば、北欧の国々は、ノルウエーは商船の研究をやるとか、スエーデンは鉄鋼の材質の改革をやるとか、フランスは採鉱の努力に著しい成績を示すとか、イギリスは経済的な合理性をもった発電計画を着実に進めるとか、アメリカは万般の工業に対する応用を中心としてこの問題を進めておるとか、みんな個性を持ったやり方で進めておるのであります。これらの点は、われわれが日本に原子力政策を確立する上に、きわめて注目すべきことであると思います。
(中略)(日本における原子力の国策決定に際して考慮すべき)第三点は、長期的計画性をもって、しかも日本の個性を生かしたやり方という考え方であります。原子力の問題は、各国においては、三十年計画、五十年計画をもって進めるのでありまして、わが国におきましても、三十年計画、五十年計画程度の雄大なる構想を必要といたします。それと同時に、資源が貧弱で資本力のない日本の国情に適当するような方途を講ずることが必要であります。たとえば、発電の場合にいたしましても、濃縮ウランを使ってやるやり方が妥当であるかどうか。わが国の資本力等から見ますれば、当然、天然ウランを使って、重水あるいは黒鉛を使ってやる発電方式というのがわが国に適当であると、現在考えられております。濃縮ウランにあまりたよるということは、現在の状態においては、発電の原料等にすら外国の応援を得なければならぬということであって、これは原子炉研究あるいは原子動力の利用について自主性を失うおそれもあるのであります。こういう点につきましても、わが国の個性という点をわれわれは慎重に考える必要があります。「自主」原則に関しては、原子力基本法の第七章「特許発明等に対する措置」の中の第一八条との関連において次のように述べれている。特許の点につきましては、日本はまだ処女地であります。外国においてはすでに公知の事案であることが、原子力の部面においては、日本においてはまだ周知の事実でない。従って、外国が日本に来て特許を設定しょうと思えば、網の目を張りめぐらすようにできるかもしれません。こういうことになると、日本の自主的発達というものはきわめて阻害されます。そこで、外国から不当に侵入しようとするものを防渇して、国産原子炉、日本の自主的研究を促進するということを考えなければならぬ「公開」原則は、特許制度や秘密特許と抵触するものである。そのことに関して中曽根は、岡良一(当時、衆議院 科学技術振興対策特別委員会理事)の質問に対する回答の中で、現代における「アンチコモンズの悲劇」問題で取り上げられているように、「(特許は)研究を非常に阻害している向きがある」、「原子力の軍事利用では秘密保持が優先され、特許は秘密特許となり公開されない」という問題点を指摘している。特許の点はアメリカでも非常に問題になっております。と申しますのは、研究を非常に阻害している向きがあるのであります。アメリカの原子力研究は軍事利用から始まりましたから、秘密を守るということ、特許は公開しない、そういう点と、それから特許権は国家に帰属する、こういう見地からきておる。それは国家資本で開発し始めたという理由もあります。しかし、最近は、学者が念願することは、自分が新しく発明や研究したことは学界に公表したいという欲望が非常にある。しかし、今までアメリカの原子力法の関係から公表を許されないために、学者の方では自分の実績が学界に認められないという焦燥感がありまして、これをゆるめろという主張がありました。もう一つは、特許権が国家にのみ帰属してしまえば、本人には直接帰属はしないので、そうもうかるわけにもいかぬ。そのために研究心を非常に阻害しておる。その辺はもうゆるめたらどうか、ゆるめなければアメリカにおける原子力の研究は加速度的に伸びるととができない、こういう問題がありまして、AECでも特許の問題と秘密の問題は非常に悩んでおるようであります。それで、これらの点については徐々に開放していくような傾向にあるそうであります。
日本におきましても大体それと同じような問題はあるのです。ただ、日本は軍事利用はやりません。従って秘密問題はないのです。また世界において、原子力開発が超党派的かつ長期的視点から計画的に推進されていること、および、超党派的推進のために原子力委員会といった「半独立自治機構」のもとに推進されていることを主張している。このように先進各国においては目ざましい進歩をしておる理由を調べてみますと、機構上におきまして、あるいは国民に対する啓蒙におきまして、非常なる努力を払っております。各国の共通の特色は、この原子力というものを、全国民的規模において、超党派的な性格のもとに、政争の圏外に置いて、計画的に持続的にこれを進めているということであります。どの国におきましても、原子力国策を決定する機関は半独立自治機構としてこれを置いておきまして、政争の影響を受けないような措置を講じております。たとえば、フランスにおきましては原子力委員会がある、イギリスにおきましても原子力委員会がある、アメリカにおいてもカナダにおいてもそうであります。これらの機関はすべて超党派的な性格をもって網羅して、国民全体が協力し得るような代表を整えておるのであります。原子力開発に関しては、超長期的視点からの取組が必要であるとして、核融合エネルギーの将来的利用にも言及し、「人類は無限大に向ってエネルギーを探す」としている。さらに、われわれが考うべきは、すでに原子力から進んで、世界の大勢は、核融合反応の利用にまで進んでいるということであります。原子力のエネルギーというものは、大体地球ができたころのエネルギーをとり出したわけでありますが、核融合反応になりますと、さらに進んで太陽ができるとろのエネルギーをつかみ出すということであります。石炭や石油というものは、百万年前後の昔のエネルギーを今われわれが使っているわけであります。原子力になりますと地球ができたころ、それからさらに、水素融合反応になると約百億年以前のエネルギー、あるいはさらに、最近新聞に出ている反陽子というようなものを使うことになると、宇宙生成のころのエネルギーということになりまして、人類は無限大に向ってエネルギーを探すということになっているのであります。こういうことが進められるということは、われわれの文明に非常なる変化を予想せしめるものであって、われわれとしてもこれを等閑に付することはできないのであります。被爆国として被爆問題に起因する核アレルギーへの対応に関連して、原子力は、活用困難=制御不可能な「猛獣」ではなく、活用可能=制御可能な「家畜」であると主張することで、地震国日本における原子力発電所等の「安全」問題への言及を無意識的にか避けている。すでに、外国においては、原子力はかっては猛獣でありましたけれども、今日は家畜になっておる。遺憾ながら日本国民はまだこれを猛獣だと誤解しておる向きが多いのです。これを家畜であるということを、われわれの努力において十分啓蒙宣伝をいたし、国民的協力の基礎をつちかいたいと思うのであります。提案趣旨説明の最後において、「何で日本の国際的地位を上げるかといえば、中立性を持っておる科学技術特に原子力によって日本の水準を上げて、それによって国際的にも正当なる地位を日本が得るように努力する。」といったように、「科学立国論」的視点からの議論が下記のように展開されている。日本の現在の国際的地位は戦争に負けて以来非常に低いのでありますが、しかし、科学技術の部面は、中立性を保っておりますから、そう外国との間に摩擦が起ることはありません。われわれが国際的地位を回復し、日本の科学技術の水準を上げるということは、原子力や科学によって可能であると思うのであります。日本が経済的に進出すればイギリスその他の国を刺激いたします。軍備によって膨張するということは今日許されません。何で日本の国際的地位を上げるかといえば、中立性を持っておる科学技術特に原子力によって日本の水準を上げて、それによって国際的にも正当なる地位を日本が得るように努力する。そういう点からいたしましても、基本法を早期に提出して日本の態勢を整えることが、非常に重要な意味を持つと思います。原子力の利用を「平和」目的に限定し「軍事」目的を認めないことに関しては、「自主」原則と関連させながら、岡良一(当時、衆議院 科学技術振興対策特別委員会理事)の質問に答えて下記のように述べている。(岡良一の質問の趣旨は、「原子力は、戦争の目的に使われ、そうして大きな不幸をまず日本民族に浴びせかけました。」とした上で、「(平和目的という)初期の目的とは反する方向に用いられないという保障」はどこにあるのか、ということである。)日本におきまする原子力の国策というものは、あくまで平和のために行うという厳然たる原則があるのでありまして、われわれが自主的に行う研究がかりそめにも軍事部面に及んではならぬ、そういうことを規定しておるわけであります。従って、日米濃縮ウラニウム協定におきましても、非軍事的利用というタイトルすらつけてあり、また秘密は渡さないという条項も念入りに入っておるわけであります。そういう国際協定の方面並びにわが国における基本法の内容等におきまして、平和以外のことは一切認めておらないのでありますから、事わが国の研究に関する限り、またわが国の利用に関する限り、自主的に行うものについて軍事的な部面にわたるものはないものと、われわれは考えております。わが国の自主的立場においては、あくまで原子力というものは平和に利用しなければならない。アメリカ側が何をしょうが、ソ連が水爆を持とうが、それは外国の、ことでありますから、間接的であります。しかし、事日本に関しては、純粋生一本に、われわれはこれは平和利用にのみ限定すべきであるという厳然たる意思表示をすべきであると思います。 - 中曽根康弘(1956)「原子力基本法の意図するもの」『時の法令』(雅粒社)196、1956年2月3日、pp.14-17
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I496653
https://dl.ndl.go.jp/pid/2783782/1/9 - 堀純郎(1956)「原子力の平和的利用について」『電氣化學』24巻4号、pp.149-
https://www.jstage.jst.go.jp/article/denka/24/4/24_149/_article/-char/ja/本稿は、堀純郎が1955年(昭和30年)10月24日に電気化学協会中部支部北陸地方大会でおこなった特別講演の記録である。残念ながら本稿では、原子力基本法や原子力三原則に関する議論はない。「原子力とは何ぞや」、「原子力の応用」、「原子力の経済性」、「産業への利用」ということに関する通俗的解説である。
内容としては、「1gの物質が消えると20兆カロリーのエネルギーを生ずる.20兆カロリーとは,0度の水20万tを沸騰させる事が出来る莫大なエネルギーであり,3000tの石炭に相当する.」とか、「原子力の利用に成功すれば人類は(エネルギー問題に関して)当分悩まなくてもよい事になる。」、「原子力発電によつて電化が促進され輸送面に大なる影響が現われる.原子力汽船や原子力潜水艦は考えられる.」といった20世紀初頭から戦中・戦後期にかけてなされてきた楽観的議論が中心であり、地震国日本における安全性問題などの問題点にはまったく触れていない。
また原子力を利用した原子力産業の新興について、「以前は重水等は振り向きもされなかつたが,重水の利用から重水工業が興る.更に黒鉛はこれ迄電極や鉛筆の芯として使用されていたが,原子力産業に使う黒鉛は桁はずれに純粋なものが必要となるのでこの方面の黒鉛工業が発展する.」といった議論なども展開されている。 - 中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7), pp.27-37の第2節「原子力三原則成立の歴史」、第3節「原子力三原則成立の背景」
https://www.nippyo.co.jp/shop/files/downloads/SHINSAI/PDF2/jihou_50_7_p27.pdf第2節「原子力三原則成立の歴史」では、学術会議における三原則の討議経過を中心とした紹介がなされている。第3節「原子力三原則成立の背景」では、原子力基本法制定当時における「核兵器開発」と「原子力発電」という二つの背景的要因が分析されている。 - 『原子力三原則の重要文献集[限定版] 原子力三原則25周年記念出版』原子力問題全国情報センター、138pp[同書表紙]
- 伏見康治ほか(1985)「学術会議と三原則」島村政策研究会[開催日:1985年7月11日、講師:伏見康治(大阪大学教授、名誉教授、名古屋大学教授、名誉教授、日本学術会議会長、参議院議員)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫]
「島村原子力政策研究会資料1」、pp.14-24[所収元]木野龍逸(2019)「文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料」Level7News,2019年1月22日 所収
https://level7online.jp/2019/%e6%96%87%e7%a7%91%e7%9c%81%e4%ba%8b%e6%95%85%e8%aa%bf%e8%b3%87%e6%96%99/ - 茅誠司ほか(1985)「学術会議と原子力事始め」島村武久原子力政策研究会[開催日:1985年11月29日,講師:茅誠司(北海道大学教授、東京大学教授、学術会議会長、東京大学学長),出席者:島村武久、藤波恒雄、別府正夫、杉本栄三、堤佳辰、石川欽也、林弘]
「島村原子力政策研究会資料1」、pp.25-44[所収元]木野龍逸(2019)「文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料」Level7News,2019年1月22日 所収
https://level7online.jp/2019/%e6%96%87%e7%a7%91%e7%9c%81%e4%ba%8b%e6%95%85%e8%aa%bf%e8%b3%87%e6%96%99/ - 大塚益比古ほか(1985)「伏見先生と学術会議」島村武久原子力政策研究会[開催日:1985年9月26日,講師:大塚益比古(大阪大学、電源開発),出席者:島村武久、別府正夫、石川欽也、坂内富士男、今村努]
「島村原子力政策研究会資料1」、pp.71-96[所収元]木野龍逸(2019)「文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料」Level7News,2019年1月22日 所収
https://level7online.jp/2019/%e6%96%87%e7%a7%91%e7%9c%81%e4%ba%8b%e6%95%85%e8%aa%bf%e8%b3%87%e6%96%99/第39委員会についての記述がpp.76-80にある。同記述によれば、工学系の会員は原子力発電は非現実的な話だと考えたため、誰も第39委員会に参加しなかった。「(大塚)(茅・伏見提案)が潰れて第三十九委員会ができた。ところが第三十九委員会も、さっき挙げたお名前でだいたいお判りでしょうが、前芝さんも小棕さんも、ご熱心な方はだいたい左派系の先生方でして。その時は五部なんて工学関係はもう冷たくて、というか無関心で、委員なんか出してくれんのですよ。
(島村)計23名って書いてあるけど結局はこの位の少人数の委員会になった:
(大塚)そうなんです。五部・工学、六部・農学、七部・医学からは委員が出て来なかったんです。もう工学の先生なんていうのは、後で伏見さんの書いたものにもありますけれども、原子力発電なんていうのは、現実とは誰も思ってないですから、もう大体委員も出てこない。それと法律とか経済の方からこういうところに出てくる先生は、いずれも左派系ですから、政府なんていうのはおよそ信用ならんっていう、戦争中のあれを持ってる先生ですから。そんな平和利用といったってそうはいかないよ、いつ何時軍事利用にならんとも限らんとか、伏見さんあたりは公開だとか何とかって、それはそう簡単にはあれだとか。」(p.77)第39委員会と原子核特別委員会の関係についての記述がpp.85-86にある。(大塚)原子核研究連絡委員会を発展的に解消して、原子核特別委員会というのをつくりよったんです。原子核特別委員会は原子核研究者が集まって、これは理論も実験も含めてですが、この人たちは結局非常に、その当時の言葉では民主化が進んでおりまして、学校の枠に囚われずに相互の情報交換から何から非常に熱心にやってた組織なんですが。それが、もっと大型の加速器をつくろうじゃないかとか、これがあの田無の原子核研究所につながるんですが、そういうことで原子核の物理学者のそれこそ超一流のメンバーでできてる委員会だったんです。
ですから、朝永はもちろんですけど、湯川秀樹、坂田昌一、伏見康治、武谷三男、何とかかんとかっていうような大体もうその当時の理論、実験の大御所が全部集まった恐ろしい委員会がありまして、それが横目で伏見さんの原子力の動きを、いろいろな意味で利害関係があるもんですから、非常に見ておったし、伏見さんもその委員ですから、そこで自分の三十九委員会での動きだとか何とかをもちろん積極的に報告もし、議論もしてもらってたんです。ですから原子核特別委員会とそれの全国的な下部組織とは、当時伏見さんの動きに対してはいろいろな意味で非常に密接に関わってて、それはさっき申しましたように、決して支持する側ではなかったんですけども。伏見の憲章案も、早速原子核特別委員会の方に出まして、この時は何か記録、伏見さんの書いてるのを見ると、この3月に2日がかりで原子核特別委員会がこの議論をしとるんです。
その当時どういう議論したかっていうと、もう原子力予算は出たし、いずれ日本で原子力研究が始まる、その時に、我々原子核研究者はこれに参加すべきか参加すべきでないかつてな議論がずいぷん真剣に行われたんです。その時に条件を出そうってことになりまして、それがまとまって、原子核研究者として原子力に、こういう条件が満たされない限り協力はしないという、彼らの言う三原則っていうのがその時できたんです。それを踏まえて朝永委員長がまとめまして、第三十九委員会の委員長の藤岡由夫宛に文書でもって意見の申し入れをやったのが。
(島村)これ3月18日ってやつですね。
(大塚)これは手紙は3月20日付けになってますが。
(島村)3月20日付け。18日に決めたんですな。
(大塚)はい。そこに三原則のはしりみたいなものが、そこに出ておりまして。それはしかし原子核研究者が、こういう条件が満たされない限り原子力には協力しないぞという三原則なんです(以下、略)
(pp85-86)大塚は、日本学術会議第17回総会において原子力三原則に関する声明が採択されたことに関して、伏見康治の役割とともに、朝永振一郎が委員長をしていた原子核特別委員会の役割が大きかった、と述べている。すなわち、伏見康治は朝永振一郎に「いじめられた」という印象を強く持っているが、客観的には朝永振一郎は原子力三原則の採択に大きな寄与をした、と述べている。「(島村)いや非常に、文献を揃えてのお話で、非常に有意義でした。大体私も、言われてみり や読んだことのある、今も探してみたんだけど、朝永さんの手記に詳しく出てるのがひと つありますけど。最後のお話にあった朝永委員会、原子核特別委員会のアドバイスが非常にあったってことは、藤岡さんのあれにも書いてあるんですよ。」(p.89)
「(大塚)伏見先生の印象は、原子核特別委員会行くといつも少数派で。結局、理研におられた杉本朝雄と後に原子力委員になった武田榮一と、伏見・杉本・武田だけが原子力推進の少数派で、後は武谷三男だとか何とか強面の人ばっかりで、いつもその席ではいわばいじめられる側だったし、朝永先生はそんな、極めて温厚そうだけれども決してそんな推進派の肩持つようなことはされなかったですから、まあ原子核特別委員会ではいじめられたという印象が–。
(島村)の方が強かったわけですな。
(別府)朝永さんは相当固いことをおしやいました。
(大塚)そのことは、ここに、伏見さんの書いたものの中に出てきます。やっぱり、ずいぶんいじめられたっていう感じが。
(島村)三原則問題に限って、お聞きしたつもりだったんだけど。朝永さんの書いたものによると、三原則ができるには、原子核委員会ですか、そっちの方のなにがあったそうじゃないですかって言ったら、伏見さんがいやそんなことはありませんって。印象で(笑い)全て話しておられるから。これで見ると、やはり強力な支援であったわけですな。
(大塚)そうですね、組織として議論すると、後から見るとやはり強い支援だと思います。やっぱりちゃんとその七か条本気で取り上げてくれて、ちゃんと文章にして総会までの間に処理してくれたのは、朝永委員会だけであって、肝心の三十九委員会なんかは。
(B)委員長あまりやらなかったみたいですね。
(島村)尻切れとんぼになっちゃって。
(大塚)議論ばっかりやってますけど、そんな整理してやってないわけですから。やっぱり一番強硬な原子核特別委員会の連中が、四条までは支持したぞってのは、逆に非常に大きな総会での扱い易さがあるわけです。
(島村)三十九委員会だけじゃなくて。
(大塚)だから三か条を原子力三原則として持ち出した時に、総会が通ったわけです。」p.89大塚は、「公開」原則の具体的運用の問題について、下記のように「アメリカの原子力研究は一切が秘密だった」ことへの批判論として理解すべきで、「主張した人たち自身が研究の途中でまで公表しろとか、そんな細かい議論を当時はしてないです。」としている。「(坂内)それからもう一つ、三原則の公開の原則なんですけども、今でも、成果の公開なのかそれとも研究の一個一個の進拣まで全部公開なのかって議論があるんですけど。このスタートからのお話ですと、研究状況の公表とかっていうことが、これは資料のどこでしたか。
(大塚)研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され、国民に周知されることを要求する、となってます。
(坂内)ここの三原則の前に、原子核研究者の原子力に対する三原則というこちらの方の中で、核兵器に繋がるような研究じゃないことを保障しようとか、二番目にその研究状況の報告があって、さっき読まれたと思うんですが。
(大塚)朝永先生のやつですか。
(坂内)そこの中に研究状況を逐次公表ってな言葉が。
(大塚)「常に研究状況が公表され、意見とデータの自由な交換によって」と書いてあります。
(坂内)その辺の思想が、ずっと公開に繋がっているとすると、そもそもの公開ってやつは研究を全部公開してやらにやいかんというところに行くのかなあ、当時のあれからしますと,そういう発想だったようですね。
(大塚)いや、そんなにあれなんですよ。むしろ、当時はご存知のようにジュネーブ会議の開かれる前ですから、アメリカの原子力研究は一切が秘密だったわけです。だから非常に一切を公開しろという主張があるわけでして。主張した人たち自身が研究の途中でまで公表しろとか、そんな細かい議論を当時はしてないです。」(p.90)- 大塚益比古(1987)「原子力三原則の誕生」『日本物理学会誌』42巻1号,pp.70-71
https://doi.org/10.11316/butsuri1946.42.1.70- 大槻昭一郎(1987)「原子力三原則について思い出すこと」『日本物理学会誌』42巻1号,pp.73-74
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/42/1/42_KJ00002749060/_article/-char/ja「公開・自主・民主」に関して、当時の若手物理学者の感覚的理解に関する興味深い証言がある。「「公開・自主・民主」という言葉は,たぶん私に限らず同世代の多くの人にとって,いと輝かしい響ぎをもってきこえる.当時感覚的には,公開は広島・長崎と惨禍をもたらした原子力の軍事利用と縁を切るための,白主は輸入に頼ることなくまた米大統領の原子力プール案(1953年暮)が意図する管理体制に組み込まれないための, そして民主は現総理大臣がいみじくも言った「札束でぶんなぐられた学者」(1954年3月)が原子力の研究開発を独占しないための,それぞれよりどころとして理解していたと思う.」(p.73)
「1958年の国連主催原子力平和利用第2回国際会議(議長F. Perrin)への基礎物理分野からの代表のなかに私は加えられた.代表団長こそ湯川秀樹先生であったが, 日本の基調報告とでもいうべきものを行ったのは当時経団連会長であった石川一郎氏であった. 第1回会議(1955年,議長 H. Bhabha)の藤岡由夫団長にたいしては、三原則を報告してこなかったという批判が出たときいていたが, もはやそのような情況は通りこしていた.核融合についてバラ色の夢がえがかれる一方で水爆の「平和」利用についての講演(E.Teiler)さえあり,原子力にたいする軍事の重圧をあらわに示していた.」(pp.73-74)
「その後ほぼ30年を経たが,私は原子力三原則にたいして若手のときと基本的に同じ見解をもっている.」(p.74)- 堀純郎ほか(1988)「初の原子力予算」島村政策研究会[開催日:1988年12月21日、講師:堀純郎(通商産業省、科学技術庁、原子力船事業団、理化学研究所)、出席者:島村武久、田中好雄、元田謙]
https://level7online.jp/wp-content/uploads/2019/01/%E5%85%AC%E9%96%8B%E7%94%A8_%E5%B3%B6%E6%9D%91%E6%94%BF%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%EF%BC%92.pdf木野龍逸(2019)「文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料」Level7News,2019年1月22日 所収
https://level7online.jp/2019/%e6%96%87%e7%a7%91%e7%9c%81%e4%ba%8b%e6%95%85%e8%aa%bf%e8%b3%87%e6%96%99/堀純郎は原子力基本法制定当時は、通商産業省に在籍し、朝永振一郎と原子力三原則について話しあったとし、自主・民主・公開に関する朝永振一郎の説明について自らが朝永から受けた説明を紹介している。「企業は自社競争力の維持・増大のために研究機密の非公開を必要とする」といったことと「公開」原則との齟齬に関して朝永は理解がなかったなど、その説明内容は興味深い。
しかしながら「民主」原則や「公開」原則に関する堀の説明は、朝永が委員長をしていた日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」における規定と若干の齟齬があるように思われる。
例えば、「民主」原則に関して、「人間のいろんな身分、別に身分があるわけじゃあないでしょうが、貴族であろうと最低の階級であろうと、どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと.それからどういう思想があろうと、どういう人でも平等に原子力に参加出来るようにしなくちゃいかんという話」だとしているが、これは原子力に関わる民主主義的討議に関する説明としては一定の妥当性があるが、日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」における内容とはかなりの差がある。「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」では、「どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと」という無限定的開放ではなく、「真に研究能力・技術能力ある研究者に対しては・・・参加を阻害し門戸を閉じるようなことがあってはならない」というように学力・専門能力に関する限定が付いている。
また「自主」原則に関して、堀は「自習でやるんだ、人から教わらない。」と朝永が述べたとしているが、それは「外国の秘密の知識は一切教わらない」、「外国と秘密な関係は一切結ばない」という「公開」原則に基づく朝永の説明をすこし歪曲した表現ではないかと思われる。「(完全に)自習でやるんだ、人から(まったく)教わらない。」ということは、いわば完全な「自力更生」主義であり、「自主」原則の理解としては適切とは思えない。実際、日本学術会議第18回総会申入(1954)「原子力の研究,開発,利用に関する措置について」では、「安易な外国への依存は,これを避けること」
という形で「自主」原則が規定されている。また日本学術会議第18回総会で藤岡由夫は、「自主」原則に関して「日本にどうしてもないもの、日本ではどうしてもできないもの、そういうふうなものを外国から輸入しなければならぬようなものがあることはむろんやむを得ないと考える」と述べている。
なお「自習でやるんだ、人から教わらない。」ということは、「日本人科学者・技術者が国際的成果に学ばずに、すべて自前でやるべきだ」という「科学に国境あり」という考え方である。科学・技術に関するそうした「鎖国」主義的発想は、当時の科学者も重視していた科学における国際協力・国際貢献を重視する「科学に国境なし」という科学研究に関して広く受け容れられている暗黙の前提に反する考え方である。すなわち、自然科学研究者は、国を超えた知的共同体としての科学者共同体の一員として自らを位置づけることで「科学に国境なし」と主張しているのであるから、「(完全に)自習でやるんだ、人から(まったく)教わらない。」というような考え方を取ることはほとんどない。
「自主」原則を、「すべて外国から教わるのだ。日本では独自の科学研究・技術研究をやる必要はない。」という議論の否定として捉えるのが不適切なのと同じく乱暴な議論と言わざるを得ない。上野にありました日本学術会議、今は六本木に引っ越しておりますが、そこでいろいろやったようです。これも大分時間が掛かりましたが、相談をした結果、原子力の開発については7原則が必要であると決めて、政府側に持ってまいりました。現在は、 俗に3原則といわれていますが、僕は本当は4原則か5原則じゃないかと思うんですが、 原子力基本法では平和・自主・民主・公開です。これだけで4原則。それに国際協力と言っておりますので、5原則というのが本当だろうと思います。平和と自主、民主、公開の3原則を掲げたほかに、三つ言って参りました。
その一つが、原子力の開発は福祉と経済に寄与するものでなければならない。次は、核物質の管理を厳重にしろと、これは当たり前のことだと思います。その次は放射線障害に万全の策を講じろと言うことで、これも別に何ということもない当然のことを言って来たと思います。そういう7原則を言ってまいりました。7原則がだんだん詰まって3原則になったと思いますが、3原則にも色々問題がありました。当時私は朝永振一郎さんとこれを話し合ったことがあります。その頃原子力のことで国会に行って反対された中心をなしていた のは、もう今は亡くなりましたが茅誠司さんと藤岡由夫さんと朝永さんの3人です。この方たちは自分の意見だけじゃなくて、大分自分の意見もあったようですが、それにプラスして、学術会議の意向も代表しておられたように感じました。
朝永さんと、自主・民主・公開というのはどう言うことかと話し合ったのですが、先ず自主というのは、外国から物を輸入したり、技術導入をしたりしないということ. 日本で全てやるんだ、自習でやるんだ、人から教わらない。それじゃあ本を読むのはどうだと訊き ましたら、学問に国境はないから本を読むのはいいと。それじゃあ留学はどうかといったら、ここらへんは難しいところのようでしたが、心の底の見えみえしているのは、留学は皆がしたくてしょうがないようでした。だから筋が通ったり、通らなかったり.しかし、その後3原則は法律に入りましたが、今朝永さんのおっしゃるような自主ですと、まったく100%これは守られていない。憲法9条が自衛隊で守られているかいないかいろいろ三百代言的な意見もありますが、これに比較してもはるかに守られていないというのが実態だろうと思います。自主は完全になしということです。
それから民主は何だと申しましたら、人間のいろんな身分、別に身分があるわけじゃあないでしょうが、貴族であろうと最低の階級であろうと、どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと、それからどういう思想があろうと、どういう人でも平等に原子力に参加出来るようにしなくちゃいかんという話なんです。それは憲法の基本的人権として当然保証されていることで、なにもわざわざ今騒ぐ必要はないじゃないかと申しましても、憲法なんか当てにならん、こういうことは、より権威のある学者の間で確立しておくことが必要だという意見でした。これは当然憲法で守られていることで何等問題ないことで、3原則に入っても守られてきていることです。
それから公開については、この原子力の結果は全てガラス張りで公開しなくちゃいかんということでして、それでは政府が税金でやっている仕事は、全て国民の財産であるから 公開して問題は無いけれど、企業が自分のお金でおやりになったことに公開を求めても、企業の機密というのはあるだろう、それはどうだといいましたら、どうも企業の秘密というようなことはお分かりにならんようで、要するに学問というものはなんでも万人の共有の財産であるという観念のあれでした。煎じ詰めてみると、発電する発電するとやっていながら、いつの間にか爆弾をつくっていたりすることがあっては困るから、それを見えるようにしてくれということのようでした。まあ朝永さんとお話して、これが学者の中では 一番頭のいい方だと私は思いますから、朝永さんがそういう風に明快におっしゃっていた ので、これが真相じゃないかと思います。
こういう条件は、その後政府でも大部分を受け入れると言うことになりまして、問題は無くなりました(pp.130-131)- 吉岡斉(1999)「科学界の対応と原子力三原則の成立」(旧版1999,新版2011)『原子力の社会史』朝日新聞出版、第3章2節、pp.74-80
吉岡斉(1999)は、第17回総会声明における「自主」原則の追加に関しては伏見康治の役割が大きいとして、p.78で下記のように記している。(第17回総会声明議案で)示された三原則は、朝永報告のそれと二つの点で異なっていた。第一は「平和」 がそれ自体としては原則の地位から外され、三原則の遵守によって維持されるべき目的へと、位置づけを変えたことである。第二は「自主」が新たに追加されたことである。学術会議声明の草案を まとめた伏見康治が、朝永報告における第五条以降(いずれも「自主」原則にかかわる)の削除を不満とし、草案作成者としての地位を利用して、「自主」原則を復活させたものと考えられる。そして 「自主」の追加にともない、「平和」が三原則から外される結果となったのである。これは相当に大きな修正であったが、関係者の間からなぜか批判は出されなかった。また吉岡斉(1999)は、日本の原子力開発利用の歴史に関する多数派の見解を「三原則蹂躅史観」として批判し、原子力三原則の歴史的意義およびその成立過程に関して下記のように記している。「多くの人々が、日本の原子力開発利用の歴史を描く際、「三原則蹂躅史観」を採用するようになった。そこでは三原則が原子力政策の正しさのほとんど唯一の評価基準とされ、また三原則を提唱し定着させた科学者たちが賢者として描かれてきた。そして政・官・財界は三原則をくり返し蹂躍しながら安易かつ拙速に原子力開発を進めてきたとされてきた。この史観に立つと、原子力開発史は三原則をめぐる政・官・財界と、国民の利益を代弁する良心的科学者集団との攻防の歴史として描かれる。
だがこの史観には三つの大きな欠陥がある。第一は、日本の原子力体制の構造と、その形成・展開のダイナミックスに関する体系的分析が阻害され、「あるべき姿」からのズレという観点からの分析で話が完結することである。」pp.78-79
「第二に、原子力の「あるべき姿」に関する「三原則」的観念はいちじるしく貧困なもので、政策論のガイドラインとして有効に機能してこなかった。たとえばそれは原子力分野での産業技術政策の適切なあり方について、ほとんど示唆するところがなかった。」p.79
「この史観の第三の欠陥は、原子力体制の草創期の科学界の動きについて、バランスのとれた全体像を描くことを阻害している点である。この時期の科学界の動きは大局的には、政・官・財界のイニシアチブで形成された原子力体制への、科学界の協力・便乗過程として理解することができる。(中略)三原則は賢者たちの良心的思想というよりもむしろ、物理学者のなかの積極推進論者と批判論者の共通の利害関心のうえに形成されたものであった。それは科学者にこそ原子力政策の決定権があると信じていた彼らが、政治家によってその自尊心をいたく傷つけられたあとに、いかにも賢者的な後始末によってみずからの存在証明を勝ちとるとともに、原子力予算可決という既成事実を、批判論者を含めた科学界の大方が満足できるような線で追認することの大義名分を獲得することへの、共通の利害関心にねざすものであった。物理学者たちはそうした共通の利害関心を満たすべく、いわば政治家以上に政治的に行動したのである。」pp.79-80- 小沼通二(2002)「向坊隆先生と原子力平和利用3原則」『日本原子力学会誌』44巻6号、pp.492-493
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesj1959/44/6/44_492/_article/-char/ja小沼は、伏見康司と武谷三男が原子力に関わる原則について1952年当時「ほとんど同時期に同様な考え」を発表していることについて1992年に二人に質問した。すなわち、「1992年に,お二人が事前に議論されたのか,あるいは事前に相手の書いたものを知っていたかお尋ねした。」が、「答えはお二人とも「事前の議論はなかったし,まったく知らなかった」ということであった。(p.43)- 伏見康司ほか(2007)「日本学術会議と戦後の原子力開発」『先学訪問 物理学者 伏見康司 編』(聞き手 井口洋夫)学士会、2007年、66pp所収[小見出し「猛反対を受けた原子力研究再開」(pp.32-37)、「原子力憲章草案」(pp.38-42)]
http://anemone.edokusho.jp/browse/sengaku_009/32伏見康司は、下記引用に示すように、原子力発電に関して「物理的な現象を利用するだけの話だと思っていました」「(原子炉の建設は)そう大変なこととは思っていませんでした」と回想するなど、物理学的視点から原子力発電所問題を捉えていた。p.30における伏見発言「当時の学術会議では、工学系の先生方の間で原子力に対して否定的な空気が支配していました。私としては、どうして原子力が持っている潜在能力を工学系の先生が認めなかったかが不思議でしたね。推進したのは、物理の茅誠司先生と伏見だけ。」
p.31における伏見発言「自分の物理的センスだけで原子力を考えていました。」
p.41における伏見発言「(「物理学者の立場では、原子炉の建設はそう大変なことではないというお考えでしたか。」という井口洋夫の質問を受けて)そうですね。そう大変なこととは思っていませんでしたね。原子、というより原子核というほうが適切ですが、その物理的な現象を利用するだけの話だと思っていましたから。ただ残念ながら、原子力利用ということでは、原子爆弾が先にできてしまいましたから、原子力というと核兵器のことだと連想する人が多くなってしまいました。」- 山崎正勝(2016)「平和問題と原子力:物理学者はどう向き合ってきたのか」『日本物理学会誌』71(12)の「4. ビキニ事件の衝撃:学術会議原子力三原則とラッセル・アインシュタイン宣言」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri/71/12/71_848/_pdf- 野口貴弘,雨宮高久(2017)「伏見康治の原子力に対する初期の見解」『平成29年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集』1171 O-28
https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/61/pdf/O-28.pdf- 野口貴弘,雨宮高久(2018)「武田栄一と原子力」『平成30年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集』1179-1180 O-20
https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/62/pdf/O-20.pdf本論文では、武田が戦前から原子核反応の工業的利用に注目していたこと、また終戦後は原子炉を用いた原子力研究に関する具体的言及を行っていることを指摘するとともに、多くの物理学者が原子力予算に対して批判的な見解を述べたにとを批判し、政・学・民の融合を主張した、と指摘されている。
さらにまた武田は、「原子力に関して多くの秘密が存在する現状」では諸外国が日本に対して原子力に関する情報や原子力関連の資源を提供したがらないことは、「我国の科学及び技術を正直に導き,世界の水準まで引き上げるための絶好の機会である」と主張した、と指摘している。武田は、武田栄一(1954)「原子力発電の見通し」『電気協会雑誌』Vol.367,No.23 pp.97-102において逆説的な言い方であるが、原子力に関する情報や資源を外国が秘匿しようとしているがゆえに、日本国内で原子力を自主的に研究することが必要であるを強調した。.- 尾関章(2021)「原子力3原則が法律になった事情/軍事をなによりも警戒した」[学術会議史話―小沼通二さんに聞く(2)]論座アーカイブ、2021年06月21日
https://webronza.asahi.com/science/articles/2021061300002.html- 尾関章(2021)「原子力3原則が法律になった事情/政治は米国の顔色を見ていた」[学術会議史話―小沼通二さんに聞く(3)]論座アーカイブ、2021年06月21日
https://webronza.asahi.com/science/articles/2021061600005.html- 猪鼻真裕(2025)「日本の原子力研究黎明期における日本学術会議内の意見の多様性と研究推進の内発的動機」『言語社会』(一橋大学)第19号、pp.262-279
https://hdl.handle.net/10086/85177日本の原子力研究黎明期の1952年から1954年における、原子力研究推進に関する日本学術会議内の意見の多様性と研究推進の内発的動機について分析したもの。主な一次資料として、日本学術会議図書館所蔵の『日本学術会議総会議事速記録』や『日本学術会議総会配布資料』、核融合科学研究所核融合アーカイブ室所蔵の伏見康治資料を用いている。
そうした一次資料に基づき、下記のような興味深い指摘がなされている。- 内閣諮問機関として1954年5月11日に設置された原子力利用準備調査会の1954年9月24日の総合部会において、「公開」原則は「可及的に公開するように努めること」に、「民主」原則は「衆知を集めるよう努力すること」になど、日本学術会議の原文と異なる内容・文言ではあるが原子力三原則の確認が行われたこと(pp.271-272)
- 1954年10月20日の日本学術会議第18総会では、原子力利用準備調査会総合部会のそうした確認に関して、日本学術会議の原子力三原則の趣旨を逸脱するものとして批判があったこと(p.272)
- 1954年4月23日の日本学術会議第17総会三日目に森戸辰男(社会政策学者・元衆議院議員・元文部大臣・広島大学初代学長)が「公開」原則に関して、「一切のものが完全に公開されなければならぬということになりますと、よほど問題が起って来る」と述べたこと(p.272)
- 1954年10月20日の日本学術会議第18総会において藤岡由夫が、「公開」原則との抵触で問題としているのは、「政治的な意味における秘密、たとえば軍事機密」であり、「商業上の秘密」を問題にしてはいない。また軍事目的の原子力研究と商用目的の原子力研究を分けて考えている。(p.272)
- 1954年10月20日の日本学術会議第18総会において藤岡由夫は、「自主」原則に関して、「日本にどうしてもないもの、日本ではどうしてもできないもの、そういうふうなものを外国から輸入しなければならぬようなものがあることはむろんやむを得ないと考える」と述べている。すなわち、藤岡は、「自主」原則とは「初めからプラントを輸入すればよいんだというような、そういう安易な考え方でおってはいけない」という意味の主張であると説明している。(p.272)
【筆者作成の関連参考資料】 - 大塚益比古(1987)「原子力三原則の誕生」『日本物理学会誌』42巻1号,pp.70-71