森一久(もり かずひさ、1926年1月17日-2010年2月3日)は、広島に落とされた原爆で家族を失い、本人も被爆したとのことである。森一久の兄に、日本の核融合研究の萌芽期にリーダーとして活躍した元プラズマ・核融合学会長の森茂(1923-2018)がいる。兄弟ともに核融合・核分裂の原子力分野でエネルギー開発に尽力した。大学では、京都大学理学部物理学科の湯川研究室に所属し、素粒子論を専攻し、1948年に卒業にした。
卒業後は『中央公論』の編集者をしながら原子力資料の翻訳と解説を担当するとともに、1955年から毎日新聞出版の『エコノミスト』に間弘明(はざまひろあき)のペンネームで記事を書いたり、中央公論社の科学雑誌『自然』および岩波書店の雑誌『世界』で匿名記事を書いたりしている。
中央公論社退社後に、テレビ会社の東京12チャンネル(現 テレビ東京)、電力会社の電源開発を経て、日本原子力産業会議(原子力の開発と平和利用を推進することを目的に1956年に設立された社団法人、『原子力産業新聞』を1956年3月25日から発刊している)に入社した。
なお森一久は、日本原子力産業会議設立に参画した人物であり、日本原子力産業会議へも最初は電源開発からの出向であった。その後、事務局長、専務理事、常任副会長(1996-2004)の職を歴任している。
[出典]
- 伊原義徳(2010)「【追悼文】森一久さんを偲ぶ 原子力に「信念・誇り・情熱」」『原子力産業新聞』2010年3月4日
http://www.jaif.or.jp/news_db/data/2010/0304-2-5.html - 中国新聞(2000)「日本原子力産業会議副会長 森 一久氏」(シリーズ被曝と人間 第2部 臨界事故の土壌[7])『中国新聞』2000年2月17日
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/00abom/ningen/000217.html - 日本原子力産業協会 (2010)「[訃報]森一久・元原産副会長が死去 原子力産業新聞 2010年2月11日
http://www.jaif.or.jp/news_db/data/2010/0211-2-3.html - 森一久資料編集会(2016)「森一久資料室開設にあたって」
https://www.nifs.ac.jp/archives/mori/index.html
核融合科学研究所核融合アーカイブ室「森一久氏資料」
https://www.nifs.ac.jp/archives/c_outline-mori.html
https://www.nifs.ac.jp/archives/mori/index.html
その構成内容は下記の通りである。
- 著作・論説目録
『原子力発電所─コールダーホール物語』 (岩波新書 1957)を除き、表紙がダウンロード可能となっている。
著書・編書・翻訳書
- H.シュアー、J.マーシャック監修 森一久訳 『原子力発電の経済的影響』東洋経済新報社 1954
- K.ジェイ(著) 伏見康治、森一久、末田守訳 「原子力発電所─コールダーホール物語」 (岩波新書 1957)
- 森一久編 「原子力は、いま-日本の平和利用30年」 (日本原子力産業会議 1986)
- 森一久編 「原子力年表(1934-1985)」 〈「原子力は、いま」別冊〉 (日本原子力産業会議 1986)
- 森一久著 「原子力にルネサンスを ― 歴史から未来へのカギ」 (エネルギー政策を考える会 1996)
- 森一久編著 「原産半世紀のカレンダー 平和利用の理想像を求めて 1956-2001」 (日本原子力産業会議 2002)
- 森一久編 「電力経済研究所小史」 (UNC会 2007)
- 聞き手:伊藤隆 「森一久オーラルヒストリー」 (近代日本史刊行会 2008)
- 森一久編 「温水養魚開発協会小史」 (UCN会 2008)
- 森一久・喜多尾憲助編著 「仮想・立花昭記念館」 (UCN会 2008)
論文
1「Atombombenabwurfe und die Entwicklung der Kernenergie in Japan」(atomwirtshaft–atomtecknik 7, 1995)本論文の中で森一久は、長田新編(1951)『原爆の子一広島の少年少女のうったえ』(岩波文庫 青 177-1)の序文で長田新が「この人類を破滅できるほどの原子力という新しいエネルギーを平和に利用するならば,人類文化の一段の飛躍が期待できる」、「平和に徹した利用の推進こそ,日本人に課された崇高な「権利と義務」である」と書いていること、および、同書に収められた105人の子供の手記の1割近くで「このすごいエネルギーを人殺しや戦争に絶対使わないで,平和のための産業のために使って下さい」と記していることを冒頭に記載し、「“日本人は放射線アレルギーが 強く原子力なら何でも感情的に反発する”といった見方は、必ずしも当らない。」「軍国主義による惨禍という悪夢から目覚めた日本人が,食物もない瓦礫と貧困の中で画いた将来の夢の中に,原子力平和利用はこのようにしたたかな位置を占めていた」と述べている。
また原子力三原則に関して、そうした日本人の感情と結びつけながら、その意義を下記のように記している。1952年から55年にわたり,平和利用開発への着手の是非をめぐり学界・産業界・政界・マスコミなど文字通り国をあげての歴史的な大論争が展開された。その論点はもっぱら,日本が,当時”Atoms for peaee”を主唱した米国など先進諸国の原水爆競争に巻き込まれる恐れはないか,原子力も所詮“両刃の剣”といえる技術の一つであり,どうしたら平和利用専守を貫けるかという,この一点に議論は集中した(その頃は安全性はあまり議論にならなかった)。
その結果,平和利用に徹するための要件として,「自主・民主・公開」 のいわゆる“三原則”を中核とする原子力基本法が1955年12月31日国会で満場一致で採決された。3「原子力の意味を考える」 ((財)統計研究会 2003)4「ビキニ水爆実験と日本の科学者」 ((財)第五福竜丸平和協会 2004) - 年次順資料目録
- 項目別資料目録
- 森一久(2015,訂正版2018)『原子力とともに半世紀 - 森一久論説・資料目録』215pp-全文ダウンロード可能
https://www.nifs.ac.jp/archives/mori/MORI2.pdf
松田慎三郎、木村一枝(2023)『森茂・一久 エネルギー開発に生涯をかけた兄弟』NIFS-MEMO-91
https://www.nifs.ac.jp/report/nifs_memo_91.pdf
木村一枝(核融合科学研究所核融合アーカイブ室協力員)「原子力とともに歩んだ森一久氏の生涯」pp.39-82