森一久(元原子力産業会議事務局長、副会長)関連資料

 森一久(もり かずひさ、1926年1月17日-2010年2月3日)は、広島に落とされた原爆で家族を失い、本人も被爆したとのことである。森一久の兄に、日本の核融合研究の萌芽期にリーダーとして活躍した元プラズマ・核融合学会長の森茂(1923-2018)がいる。兄弟ともに核融合・核分裂の原子力分野でエネルギー開発に尽力した。大学では、京都大学理学部物理学科の湯川研究室に所属し、素粒子論を専攻し、1948年に卒業にした。
 卒業後は『中央公論』の編集者をしながら原子力資料の翻訳と解説を担当するとともに、1955年から毎日新聞出版の『エコノミスト』に間弘明(はざまひろあき)のペンネームで記事を書いたり、中央公論社の科学雑誌『自然』および岩波書店の雑誌『世界』で匿名記事を書いたりしている。
 中央公論社退社後に、テレビ会社の東京12チャンネル(現 テレビ東京)、電力会社の電源開発を経て、日本原子力産業会議(原子力の開発と平和利用を推進することを目的に1956年に設立された社団法人、『原子力産業新聞』を1956年3月25日から発刊している)に入社した。
 なお森一久は、日本原子力産業会議設立に参画した人物であり、日本原子力産業会議へも最初は電源開発からの出向であった。その後、事務局長、専務理事、常任副会長(1996-2004)の職を歴任している。

[出典]

 

https://www.nifs.ac.jp/archives/mori/index.html

森一久に関する各種資料は、核融合科学研究所の核融合アーカイブ室において保存されている。核融合科学研究所核融合アーカイブ室「森一久氏資料」によれば、「資料群の構成は森一久氏が遺した原子力に関する文書、蔵書、雑誌、冊子、私信、日記、手書き原稿、メモなどで、文書資料約1700点、蔵書、雑誌、冊子等400冊あまりからなる」とのことである。
 その構成内容は下記の通りである。
 
  1. 著作・論説目録
    『原子力発電所─コールダーホール物語』 (岩波新書 1957)を除き、表紙がダウンロード可能となっている。

    著書・編書・翻訳書

    1. H.シュアー、J.マーシャック監修 森一久訳 『原子力発電の経済的影響』東洋経済新報社 1954
    2. K.ジェイ(著) 伏見康治、森一久、末田守訳 「原子力発電所─コールダーホール物語」 (岩波新書 1957)
    3. 森一久編 「原子力は、いま-日本の平和利用30年」 (日本原子力産業会議 1986)
    4. 森一久編 「原子力年表(1934-1985)」 〈「原子力は、いま」別冊〉 (日本原子力産業会議 1986)
    5. 森一久著 「原子力にルネサンスを ― 歴史から未来へのカギ」 (エネルギー政策を考える会 1996)
    6. 森一久編著 「原産半世紀のカレンダー 平和利用の理想像を求めて 1956-2001」 (日本原子力産業会議 2002)
    7. 森一久編 「電力経済研究所小史」 (UNC会 2007)
    8. 聞き手:伊藤隆 「森一久オーラルヒストリー」 (近代日本史刊行会 2008)
    9. 森一久編 「温水養魚開発協会小史」 (UCN会 2008)
    10. 森一久・喜多尾憲助編著 「仮想・立花昭記念館」 (UCN会 2008)
     

    論文

    1「Atombombenabwurfe und die Entwicklung der Kernenergie in Japan」(atomwirtshaft–atomtecknik 7, 1995)
    本論文の中で森一久は、長田新編(1951)『原爆の子一広島の少年少女のうったえ』(岩波文庫 青 177-1)の序文で長田新が「この人類を破滅できるほどの原子力という新しいエネルギーを平和に利用するならば,人類文化の一段の飛躍が期待できる」、「平和に徹した利用の推進こそ,日本人に課された崇高な「権利と義務」である」と書いていること、および、同書に収められた105人の子供の手記の1割近くで「このすごいエネルギーを人殺しや戦争に絶対使わないで,平和のための産業のために使って下さい」と記していることを冒頭に記載し、「“日本人は放射線アレルギーが 強く原子力なら何でも感情的に反発する”といった見方は、必ずしも当らない。」「軍国主義による惨禍という悪夢から目覚めた日本人が,食物もない瓦礫と貧困の中で画いた将来の夢の中に,原子力平和利用はこのようにしたたかな位置を占めていた」と述べている。
     また原子力三原則に関して、そうした日本人の感情と結びつけながら、その意義を下記のように記している。

    1952年から55年にわたり,平和利用開発への着手の是非をめぐり学界・産業界・政界・マスコミなど文字通り国をあげての歴史的な大論争が展開された。その論点はもっぱら,日本が,当時”Atoms for peaee”を主唱した米国など先進諸国の原水爆競争に巻き込まれる恐れはないか,原子力も所詮“両刃の剣”といえる技術の一つであり,どうしたら平和利用専守を貫けるかという,この一点に議論は集中した(その頃は安全性はあまり議論にならなかった)。
     その結果,平和利用に徹するための要件として,「自主・民主・公開」 のいわゆる“三原則”を中核とする原子力基本法が1955年12月31日国会で満場一致で採決された。
     
    3「原子力の意味を考える」 ((財)統計研究会 2003)
    4「ビキニ水爆実験と日本の科学者」 ((財)第五福竜丸平和協会 2004)
     
  2. 年次順資料目録
     
  3. 項目別資料目録
     
  4. 森一久(2015,訂正版2018)『原子力とともに半世紀 - 森一久論説・資料目録』215pp-全文ダウンロード可能
    https://www.nifs.ac.jp/archives/mori/MORI2.pdf
 
その他

松田慎三郎、木村一枝(2023)『森茂・一久 エネルギー開発に生涯をかけた兄弟』NIFS-MEMO-91
https://www.nifs.ac.jp/report/nifs_memo_91.pdf

松田慎三郎(元日本原子力研究所理事、元東工大研究員)「森 茂 被爆から核融合開発に向けた熱意」pp.2-38
木村一枝(核融合科学研究所核融合アーカイブ室協力員)「原子力とともに歩んだ森一久氏の生涯」pp.39-82
カテゴリー: ダウンロード可能資料, 原子力三原則, 原子力利用の批判的検討論, 原子力利用の正当化論, 森一久 | 森一久(元原子力産業会議事務局長、副会長)関連資料 はコメントを受け付けていません

島村武久(元原子力委員)主催による原子力政策研究会1985-1994の記録

島村武久元原子力委員は、委員退任後の1985年から94年にかけて原子力関係者を講師とした原子力政策研究会を開催した。同研究会の内容は録音テープとして残され、(財)日本原子力文化振興財団に保管されていた。
録音資料の形では情報の活用に不便であるため文書化にむけて、伊原義徳元原子力委員が、その内容を聞き、必要性について大、中、小、不要に分類した。そして重要度が高い34件について監修委員会(代表者:伊原義徳、委員:森一久、遠藤哲也、浜崎一誠、林弘)の監修のもとで文書化がなされた。

<--- 島村原子力政策研究会資料の印刷・配布について 平成20年6月 文部科学省研究開発局 原子力計画課 故島村武久元原子力委員が、委員退任後の1985年から94年に掛けて原子力政策研究会を開催され、原子力関係者を講師として種々の課題についての勉強会を持たれ。その内容が録音テープとして残され、(財)日本原子力文化振興財団に保管されていた。  ただし、録音資料の形では情報の活用に不便であり、これを文書化することが適当と考えられたので、伊原義徳元原子力委員が、その内容を聞き取つた結果、必要性大、中、小不要に分類した。 このうち重要度の高いものの文書化がなされ、監修委員会(代表者:伊原義徳、委員:森一久、遠藤哲也、浜崎一誠、林弘)の監修を経て、34テーマの文書化が完了しました。  本資料は、文部科学省の行政参考資料として同省に保管・活用されるものでありますが、島村武久氏が本研究会を持たれた趣旨は、わが国における原子力研究開発利用の歴史を、主として政策の面から俯厳し、散逸されがちな資料と証言とを止めることにより、何が問題であり、何が解決し、何が遺された問題であるかを、特に若い世代に伝えておきたいと言うことであったと推察される。直接原子力を担当された方々による、大変貴重な証言であるので、 21世紀におけるわが国原子力研究開発利用の問題解決に当たうての参考として、今後大いに活用されることを期待し、現在文書化の完成している35テーマについて、印刷製本とCD版の作成を行い、文部科学省内原子力関係者等関に配布したいと考えています。 島村原子力政策研究会資料の印刷等を行い関係者等に配布するにあたり、講師の方々及び監修にご協力頂いた皆様に内容の確認、並びにご承諾を頂きたいと考えております。 なお、本資料は販売を目的としたものではなく行政資料としての活用を考えておりますのでよろしくお願いします。 同封いたしました講演録の内容をご確認頂きtご承諾いただける場合は、別紙承諾書に記入押印のうえ同封の封書により返送して頂きますようよろしくお願いいたします。 ご不明な点がございましたら下記までお問い合わせ願います。 お問い合わせ先 文部科学省研究開発局原子力計画課 --->

 

なお同文書は下記WEBページよりダウンロード可能となっている。

 
島村武久原子力政策研究会における講師および聞き取りタイトル
01,仁科芳雄とサイクロトロン
pp.1-13
開催日:1989年10月30日
講師:田島英三(立教大学教授、名誉教授、元原子力委員、元原子力安全委員)
出席者:島村武久、田中好雄、後藤正記

02.学術会議と三原則
pp.14-24
開催日:1985年7月11日
講師:伏見康治(大阪大学教授、名誉教授、名古屋大学教授、名誉教授、日本学術会議会 長、参議院議員)
出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫

03.学術会議と原子力事始め
pp.25-44
開催日:1985年11月29日
講師:茅誠司(北海道大学教授、東京大学教授”学術会議会長、東京大学学長) 出席者:島村武久、藤波恒雄、別府正夫、杉本栄三、堤 佳辰、石川欽也、林 弘

04.原子力と産業界
pp.45-70
開催日:1988年3月18日
講師:森一久(中央公論社、電源開発、原子力産業会議)
出席者:島村武久、田中好雄、川島芳郎、後藤正記

05.伏見先生と学術会議
pp.71-
開催日:1985年9月26日
講師:大塚益比古(大阪大学、電源開発)
出席者:島村武久、別府正夫、石川欽也、坂内富士男、今村努

06.原子力と政治
pp.97-118
開催日:1987年5月21日
講師:前田正男(三井物産、衆議院議員、科学技術庁長官)
出席者:島村武久、堀純郎、村田浩、別府正夫、後藤正記、石田寛人

07.先覚者齋藤憲三
pp.119-126
開催日:1988年
講師:山崎貞一(東京電気化学、TDK社長、会長)
質問者:島村武久

08.初の原子力予算
pp.127-138
開催日:1988年12月21日
講師:堀純郎(通商産業省、科学技術庁、原子力船事業団、理化学研究所)
出席者:島村武久、田中好雄、元田謙

09.原子力利用準備調査会
pp.139-167
開催日:1988年5月31日
講師:村田浩(南満州鉄道、経済企画庁、科学技術庁、在英大使館、原子力局長、日本原 子力研究所副理事長、理事長)
出席者:島村武久、村上昌俊、山崎一男、元田 謙

10.初の海外調査団と研究炉建設
pp.168-192
開催日:1988年8月11日
講師:神原豊三(日立製作所、日本原子力研究所、日立製作所)
出席者:島村武久、村上昌俊

11.初の原子力留学と原子力開発の流れ
pp.193-214
開催日:1992年1月16日
講師:伊原義徳(通商産業省、科学技術庁、国際科学技術博覧会協会、日本原子力研究所、 原子力委員)
出席者:島村武久、田中好雄、川島芳郎、元田 謙、鐵川喜一郎

12.三菱原子カグループ
pp.215-222
開催日:1989年3月8日
講師:浮田禮彦(三菱商事、三菱原子カ工業)
出席者:島村武久

13.住友原子カグループ
pp.223-249
開催日:1990年1月11日
講師:佐々木元増(住友金属工業、住友原子カ工業副社長) 出席者:島村武久、板倉哲郎

14.第一原子力産業グループ
pp.250-254
開催日:1987年
講師:前田七之進(富士電機社長、会長) 質問者:島村武久

15.半均質炉の開発
pp.255-265
開催日;1986年3月17日
講師:西堀榮三郎(京都大学、東芝、日本原子力研究所、原子力船開発事業団)
出席者:島村武久、藤波恒雄

16.半均質炉計画の見直し
pp.266-275
開催日:1986年2月7日
講師:武田榮一(大阪帝国大学、東京工業大学教授、名誉教授、原子力委員)
出席者:島村武久、藤波恒雄、杉本栄三、澤井 定

17,新型動力炉の開発
pp.276-299
開催日:1986年4月4日
講師:島 史朗(日立製作所、動力炉•核燃料開発事業団部長、理事)
出席者:島村武久、杉本栄三、青江茂、今村 務

18.原子力行政問題懇談会
pp.300-316
開催日:1992年
講師:沖村憲樹(科学技術庁、通商産業省、科学技術庁研究開発局審議官)
出席者:島村武久、板倉哲郎、山本庸二、鎌川喜一郎

19.新型動力炉開発と核燃料サイクル
pp.317-330
開催日:1990年1月19日
講師:澤井 定(日本原子力研究所、動力炉•核燃料開発事業団理事)
出席者:島村武久、田中好雄、村上昌俊

20.高速実証炉の建設に向かって
pp.331-351
開催日:1990年6月14日
講師:板倉哲郎(日本原子力発電技術開発本部長)
出席者:島村武久、川島芳郎、後藤正記

21.原子力産業と電力産業
pp.352-372
開催日:1991年夏
講師:谷口富裕(通商産業省、OECD科学局次長、通商産業省資源エネルギー庁技術課長) 出席者:島村武久、田中好雄、鐵川喜一郎

22.電気事業と核燃料サイクル
pp.373-398
開催日:1994年夏
講師:豊田正敏(東京電力、日本原子力発電、東京電力、日本原燃サービス社長) 出席者:島村武久、田中好雄、金子熊夫、村上昌俊、鐵川喜一郎

23.原子力外交と日米原子力協定
pp.399-414
開催日:1989年10月12日
講師:遠藤哲也(外務省科学技術審議官、在ウィーン国際機関代表部大使)
出席者:島村武久、田中好雄、川島芳郎

24.原子力外交と日仏原子力協定
pp.415-431
開催日:1990年3月28日
講師:太田博(外務省官房審議官)
出席者:島村武久、川島芳郎

25.原子力外交と核兵器拡散防止
pp.432-457
開催日:1991年
講師:金子熊夫(外務省國際連合局原子力課長、東海大学教授)
出席者:島村武久、元田 謙、川島芳郎、坂入武彦、山本庸二

26.プルトニウムと日米原子力協定
pp.458-475
開催日:1991年6月
講師:坂田東一(科学技術庁原子力局核燃料課長)
出席者:島村武久、川島芳郎、鐵川喜一郎、村上昌俊、山本庸二、中島健太郎

27.燃料輸送とIAEA規則
pp.476-487
開催日:1987年2月18日
講師:吉村佐一郎(科学技術庁原子力安全局核燃料規制課長)
出席者:島村武久

28.核燃料輸送と規制官庁
pp.488-506
開催日:1992年
講師:青木成文(東京工業大学教授、名誉教授)
出席者:島村武久、金子熊夫、吉田節生

29.ウラン濃縮事業
pp.507-530
開催日:1987年2月4日
講師:三宅申(東京電力、日本原燃産業常務取締役)
木佐木 裕(東京電力、日本原燃産業業務部長代理)
出席者:島村武久、後藤正記

30.ウラン濃縮技術
pp.531-546
開催日:1993年
講師:高島洋一(理化学研究所、東京工業大学教授、名誉教授) 出席者:島村武久、田中好雄、井田治雄、村上昌俊、井上清

31.高レベル放射性廃棄物処理処分
pp.547-569
開催日:1990年8月30日
講師:干場静夫(科学技術庁原子力局原子カバックエンド室長) 出席者:島村武久、田中好雄、川島芳郎、村上昌俊

32.動力炉•核燃料開発事業団 未萌会
pp.570-580
開催日:1987年
講師:島村武久
出席者:動力炉•核燃料開発事業団未萌会会員

33.原子力と電力労連
pp.581-591
開催日:1989年7月27日
講師:渡辺登(電力労連政策局長)北條正(電力労連原子力部長)
出席者:島村武久

原子力開発利用長期基本計画策定
pp.592-
開催日:1956年6月26日
座長:政策課長 島村武久
出席者:政策課 小斎弘、林弘
原子力調査課 村田浩
管理課 伊原義徳
助成課 萩野谷徹
アイソトープ課 松友信壽

 

関連WEBページ
島村武久(1985)「原子力委員会委員を退任して」
https://www.aec.go.jp/kettei/ugoki/geppou/V30/N04/198501V30N04.html

カテゴリー: ダウンロード可能資料, 原子力三原則, 島村原子力政策研究会 | 島村武久(元原子力委員)主催による原子力政策研究会1985-1994の記録 はコメントを受け付けていません

日本の原子力三原則に関する生成AIの回答

日本の原子力三原則に関して、生成AIの回答の一例は下記のようなものであった。内容的にはさほどのオリジナリティはないが、簡潔なまとめとして利用できるレベルの回答になっている。

https://chatgpt.com/share/685e0cf1-890c-800f-99a3-6860a1b21720

 
利用したプロンプト文
  • 「原子力基本法が制定された経緯や背景について専門家の立場から詳しく教えてください。」
  • 「大学院レベルの専門的分析の深さで教えてください。」
  • 「1945年から1955年の期間を対象としてください。」
 
「民主」・「自主」・「公開」の意味・意義に関する、ChatGPT4oのDeep Researchを利用した回答結果
 
民主(民主性):原子力政策の決定や運営は政府による独断ではなく、国民の意思に基づき民主的手続きで行われること。言い換えれば、原子力の開発・利用については国会審議や世論の反映など公開された場での合意形成が必要であり、密室で政策が決められないようにするという趣旨である。これは原爆開発が軍部主導の極秘計画であった反省から、平和利用においては国民的統制の下に置くという決意を示す。

 

自主(自主性):日本の原子力研究・利用は他国から強制されたり依存したりせず、自主的な運営を行うこと。特に軍事的色彩を排除し、外国(当時主に想定されたのは米国)の思惑に左右されないことを意味する。実際には日本の原子力は米国の協力なくして始まり得なかったが、「自主」の原則を掲げることで最終的な意思決定権は日本側にあり、将来的には国産技術を確立する意思があることを示したと言える。

 

公開(公開性):原子力に関する研究開発・利用およびその成果は、原則として公開し隠し事をしないこと。秘密主義は疑心暗鬼を生み、軍事転用の不安を招くとの考えから、可能な限り情報を公開して国民および国際社会の信頼を得るという目標である(もっとも、安全保障や安全対策上すべてを無制限に公開するわけにはいかず、「重要な事項はすべて国民が知り得るよう公開する」との表現になった)。同時に成果の公開は日本が平和目的の国際協力に貢献していくことも意味していた。

 
カテゴリー: 原子力三原則 | 日本の原子力三原則に関する生成AIの回答 はコメントを受け付けていません

政府事故調・国会事故調の収集資料

政府事故調査委員会や国会事故調査委員会が収集した資料について、下記でpdfがダウンロードできるようになっている。

  1. 木野龍逸(2019)「文科省から政府事故調および国会事故調に提出された資料」Level7News
    https://level7online.jp/2019/文科省事故調資料/

    文部科学省が政府事故調査委員会・国会事故調査委員会に提出した資料に関して、木野龍逸氏が開示請求を求めた資料。地震調査研究推進本部の議事録のほか、2011年4月に学校の校庭の使用基準を年間20ミリシーベルトにした時の通知や、放射線教育の経緯に関するもの、放射線教育のための副読本、1989年に始まった原子力関係者による勉強会「島村原子力政策研究会(1985-1994)」文書などが含まれる。
     

    開示請求受付日 2018年5月18日
    開示決定日 2018年7月17日
    文書名(概略) 文科省から事故調に提出された資料の一切(一覧は下記)
    文書作成年月日 事故調への提出時期 2012年1月27日〜5月30日

     
  2. 添田孝史(2019)「内閣府政府事故調が収集した全文書のリスト」
    https://level7online.jp/2019/1412094-2/

    「政府事故調が収集した文書の名称一覧。リストは120ページあります。1ページに文書が約20掲載されているとすると、全部で2千数百ぐらいの文書。」とのことである。一部黒塗り文書がある。

    開示請求者 添田孝史
    開示請求受付日 2018年11月26日
    開示決定日 2018年12月25日
    開示決定の番号 府政原防第785号
    文書名(概略) 調査資料リスト
    文書作成年月日 2011年〜2012年
    文書作成者(組織名) 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会(政府事故調査委員会)
    ページ数 120

    全文書リスト
    https://level7online.jp/wp-content/uploads/2019/05/H30_785_%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E8%B3%87%E6%96%99%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88.pdf

     
  3. 添田孝史(2017)「保安院が事故調に提出した文書」
    https://database.level7online.jp/items/show/20

カテゴリー: ダウンロード可能資料, 国会事故調査委員会, 政府事故調査委員会, 福島第一原発事故 | 政府事故調・国会事故調の収集資料 はコメントを受け付けていません

原子力基本法と「安全」問題-「安全」原則なき原子力基本法(1955)に対する追加・修正の歴史

1.1955年(昭和30年)の原子力基本法(1955) - 「安全」原則なき原子力基本法
 
第二条において、原子力の研究、開発及び利用が「平和」目的に限られること、および、「民主・自主・公開」の3原則が謳われている。「安全」問題については、原子力発電所の商用化前であることもあり、第20条で「放射線による障害を防止を防止し、公共の安全を確保する」ことしか論じられてはいない。
 なお本法案は、自由民主党と日本社会党の全議員を含む「中曽根康弘君ほか421名」による議員立法であった。中曽根康弘は法案の提案理由の中で、「(先進)各国の共通の特色は、この原子力というものを、全国民的規模において、超党派的な性格のもとに、政争の圏外に置いて、計画的に持続的にこれを進めているということであります。」(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=2)と述べているが、そのことは日本にも当てはまった。「国防政策や外交政策の見解の差にかかわらず、この原子力の日本の自主的平和利用については、超党派的に、平和でいこう、こういうような考え方が成立した」https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=18結果として、原子力基本法は与野党一致での提案となったのである。
 なお森一久(1995)「原爆体験と日本の原子力開発」『日本原子力学会誌』37(9)によれば、「スエズ動乱の影響などもあって,原子力への熱っぽい支持は続き,その後約10年間以上の間,原子力研究開発機関の新設などを定める関連法令や必要な予算はすべて,共産党を含む全与党野党の全会一致で国会を通過するという状況」(p.62)が続いた。

 

 原子力基本法(1955)の法案に反対したのは共産党・労農党だけであったが、その反対理由もアメリカと結んだ「経済の軍事化と再軍備の強化」という点にあり、「安全」原則の欠如を問題としたものではなかった(加藤哲郎(2013)「日本における「原子力の平和利用」の出発」加藤哲郎・井川充雄『原子力と冷戦』共栄書房、p.18)とされている。
 社会党の岡田春夫も、1955年12月13日開催の第23回国会衆議院科学技術振興対策特別委員会で反対論を述べているが、その理由も「安全」に関係したものではなく、「アメリカの原子力政策に従属する結果」となる、すなわち、「自主」原則が守られてはいないため「われわれの意図するところに反する結果を招く」といった理由からであった。

 
(日米原子力協定に基づき)日本において日本の民間の人々に原子力の研究をやらせる場合においても、常に、アメリカというものが陰について、その授権を行う場合においてさえ、これに対する権限を制限するというような事実が、協定の上に明らかに出ているわけであります。そうすると、どこでいかに自主的な研究を進めるということを基本法にお書きになっても、事実上日本とアメリカとの協定を進めていく場合においては、その自主性は、完全なる自主性ではなくて、アメリカに拘束された意味の自主性と解釈せざるを得ないと思うのであります。
[出典]https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=56
 
きょうは、せっかくの原子力基本法を議員諸君の御努力によりまして提出をされたのでございますけれども、私は、同僚の議員として、残念ながら意見を異にいたしまするために、基本法を含めて委員会設置法並びに総理府の一部改正法、これに対して反対をいたします。(中略)原子力を平和的に利用させ、これを発展させるということについては、絶対にわれわれは反対でありません。・・・しかしながら、それのための受け入れ態勢としては、きわめて不十分であるのみならず、逆にアメリカの戦争体制として準備されておるアメリカの原子力政策に従属する結果になって、われわれの意図するところに反する結果を招くから、この点について懸念するものであります。私たちは、この意味において、この三法案(引用者注 原子力基本法、委員会設置法並びに総理府の一部改正法のこと)に対して反対をいたします。
[出典]https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=102
 
森一久(1995)「原爆体験と日本の原子力開発」『日本原子力学会誌』37(9)は、原子力基本法制定当時の日本では、「日本が,当時”Atoms for peaee”を主唱した米国など先進諸国の原水爆競争に巻き込まれる恐れはないか,原子力も所詮“両刃の剣”といえる技術の一つであり,どうしたら平和利用専守を貫けるかという,この一点に議論は集中した」(p.61)とし、そうした社会的懸念の解消策として、「自主・民主・公開」という原子力三原則のもと「平和」目的での原子力研究を目指すこととなった、としている。
 さらにまた「安全」原則が入らなかったことに関して、「その頃は安全性はあまり議論にならなかった」と書いている。
 
原子力基本法(1955) 第一条および第二条の条文
法律第百八十六号(昭三〇・一二・一九)

第一章 総則

 (目的)
第一条 この法律は、原子力の研究、開発及び利用を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。

 (基本方針)

第二条 原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

 
2.1978年(昭和53年)の原子力基本法改正 - 「安全」原則を追加した原子力基本法
 
1978年(昭和53年)の一部改正において、第2条に関して「平和の目的に限り」に続けて「安全の確保を旨として」が追加され、「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」という現行第2条の条文の形になった。
 またそれにともない、原子力委員会とは別に、「安全の確保に関する事項について企画し、審議し、及び決定する」機関としての原子力安全委員会が新たに設置されることになった。

 
原子力基本法改正(1978)の改正部分
「原子力基本法等の一部を改正する法律」法律第八十六号(昭五三・七・五)
[出典]https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/08419780705086.htm

(原子力基本法の一部改正)
原子力基本法(昭和三十年法律第百八十六号)の一部を次のように改正する。

第二条中「平和の目的に限り」の下に「、安全の確保を旨として」を加える。
「第二章 原子力委員会」を「第二章 原子力委員会及び原子力安全委員会」に改める。
第四条中「原子力委員会」を「原子力委員会及び原子力安全委員会」に改める。
第五条中「原子力の研究、開発及び利用に関する事項」の下に「(安全の確保のための規制の実施に関する事項を除く。)」を加え、同条に次の一項を加える。
2 原子力安全委員会は、原子力の研究、開発及び利用に関する事項のうち、安全の確保に関する事項について企画し、審議し、及び決定する
第六条中「原子力委員会」を「原子力委員会及び原子力安全委員会」に改める。
 
3.2023年(令和5年)の原子力基本法改正-「安全神話」問題の追加
 
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所事故を防止できなかったことを反省し、「原子力事故の発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をしなければならない」ことが第2条に追加された。

 
原子力基本法改正(2023)の改正部分
「脱炭素社会の実現に向けた電気供給体制の確立を図るための電気事業法等の一部を改正する法律案」第5条(原子力基本法の一部改正)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g21109026.htm

原子力基本法(昭和三十年法律第百八十六号)の一部を次のように改正する。

第一条中「学術の進歩と産業の振興と」を「並びに学術の進歩、産業の振興及び地球温暖化の防止」に改める。
第二条に次の一項を加える。
3 エネルギーとしての原子力利用は、国及び原子力事業者(原子力発電に関する事業を行う者をいう。第二条の三及び第二条の四において同じ。)安全神話に陥り、平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故を防止することができなかつたことを真摯に反省した上で、原子力事故(原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年法律第百四十七号)第二条第一項に規定する原子炉の運転等に起因する事故をいう。以下同じ。)の発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をしなければならないという認識に立つて、これを行うものとする。
 

カテゴリー: 原子力三原則 | 原子力基本法と「安全」問題-「安全」原則なき原子力基本法(1955)に対する追加・修正の歴史 はコメントを受け付けていません

原子力三原則の成立史関連資料

【本稿に関する説明】

本稿では、原子力三原則の成立に関して、日本学術会議関係者の視点からの議論を中心とした資料を主として紹介している。
 原子力三原則をめぐる日本学術会議での議論は、原子力研究が強くdual use的性格を持つがゆえに、「軍事」目的に利用されず、「平和」目的にのみ利用されるようにするにはどのようにすれば良いのか、ということが根本的問題意識にあった。すなわち原子力三原則をめぐる議論の歴史的展開の分析に当たっては、原子力をめぐる諸原則が「原子兵器に関する研究」をおこなわない、おこなわせないための「手段」的性格を持つということに留意する必要がある。
 日本学術会議第17回総会声明(1954)において原子力三原則の規定の前に、「わが国において原子兵器に関する研究を行わないのは勿論,外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならない」という文言が置かれていることもそうした視点から理解する必要がある。 またそうした日本学術会議の決意は、原子力基本法における原子力三原則の規定が入った第二条における「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、・・・これを行うものとし」という表現の中にも反映されている。
 なお原子力研究を「平和」目的に限るということは現在にいたるまで日本において広く合意されている。その意味で日本学術会議における原子力三原則の議論は大きな歴史的意義を持つものである。
しかしながら日本学術会議では、<「軍事」目的の原子力研究をおこなわない、あるいは、おこなわせない>という目的を実現するための手段として原子力三原則が位置づけられていたため、「平和」目的の原子力研究、すなわち、大学、公的研究機関、民間企業における原子力研究のあり方との関係で原子力三原則をどのように適用・運用すべきなのかという点での検討が不十分であった。日本学術会議会員の中心は、大学に属する科学者であるため、特に民間企業における原子力研究のあり方との関係における原子力三原則の吟味・検討が十分にはなされていない。
 下記資料紹介で記したように、「自主」原則は「すべてを外国に頼るべきではない」という否定的表現に止まるため、「ある特定の時点で何をどこまでをどのように日本自前でやるべきなのか?何をどこまでをどのように外国に頼るべきなのか?」に関する具体的指針の作成には役立てなかった。また「民主」原則や「公開」原則は、基礎研究に関する原則としてはさほど問題ではないが、民間企業のコアコンピテンス(中核的競争力)に関わる応用研究・開発研究や企業秘密に関する原則としては文字通りには適用困難なものであった。こうしたことは日本学術会議内部の議論の中でも認識されていた。
 また「公開」原則に関して、中曽根康弘は、衆議院・科学技術振興対策特別委員会(1955年12月13日)における原子力基本法の審議の中で、現代における「アンチコモンズの悲劇」問題に関わるような議論を特許との関係で展開しているが、民間企業における原子力研究との関係で「公開」原則の問題を具体的に論じられることはあまりなかったように思われる。
 そうした結果として、民間企業における原子力研究のあり方や日本の原子力発電の実用化のあり方に対して原子力三原則は十分には機能しなかったように思われる。吉岡斉(旧版1999,新版2011)『原子力の社会史』が「戦後全体をとおして、それが軍事目的であることを公言する形で、日本が独自の原子力開発利用活動を展開したことはない。」(p.18)とする一方で、「(原子力三原則は)核エネルギー事業の商業化という事態を想定しておらず、したがって営利事業に三原則をそのまま押しつけることは無理であった。すなわち「公開」原則は企業秘密保護の原則と抵触し、「民主」原則は企業研究がアカデミック・サイエンス型の研究組織をとらないのでガイドラインとしての意味が乏しく、「自主」原則は、それこそ企業の自主的判断に委ねられるべき事柄であった。」(p.79)と指摘し、「「三原則」の提唱・定着過程は確かに、日本の原子力体制の草創期の、一つの重要なエピソードではあるが、それ以上のものではない。・・・「三原則」は周辺的エピソードの一つにとどまるのである。」(p.79)と位置づけているのもあながち間違いとは言えない。

 
【原子力三原則の成立史関連資料】(原則として、公表年順)
  1. 武谷三男(1952)「日本の原子力研究の方向」『改造』1952年11月増刊号
    1952年7月25日の日本学術会議第51回運営審議会で茅誠司(日本学術会議副会長)による「政府に対する原子力委員会設置申し入れ」提案が承認され、伏見康司が第13回総会に諮る原案の起草を担当したことが物理学者の間で大問題になった。武谷三男はそうした動きに対する自らの見解を表明するために、本稿を1952年10月初めに書き記した。
     本稿では、被爆国日本として、「日本人の手で原子力の研究を進め」ること、平和目的の研究に限定すべきこと、「平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもって」いることが最初に述べられている。
     「公表」原則は「日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである」、「外国の秘密の知識は一切教わらない」、「外国と秘密な関係は一切結ばない」という形で、「民主」原則は「日本の原子力研究所の如何なる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のため如何なる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。」という形で主張されている。
    「自主」原則は、明確な形では主張されてはおらず、「日本人の手で原子力の研究を進め」ることという文言の中の含意として暗に触れられているに過ぎない。
    国立国会図書館デジタルコレクションに会員登録していれば、ログインして下記URLから、武谷三男, 星野芳郎(1958)『原子力と科学者』朝日新聞社,pp.321-322に再録された本論文をオンラインで読むこと、および、ダウンロードができる。
     
     そこで私は原子炉建設にさいして、厳重に次のような条件を前提とすべきで、これは世界に対して声明し、法律によって確認さるべきだと思う。
    日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行わない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
    ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
    日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所の如何なる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のため如何なる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。以上のことを法的に確認してから出発すべきである。

     
  2. 伏見康治(1954)「原子力憲章草案」(伏見康治(1989)『時代の証言 – 原子科学者の昭和史』同文社、pp.231-232再録)
    本文書は、第一条で「平和」目的への限定を、第二条および第三条で「公開」原則を、第四条で「民主」原則に触れている。
    「自主」原則は明確には述べられてはいない。第五条における「(原子力研究開発利用施設に対する)外国人の投資を許さない」という規定の中に限定的に触れられているだけである。
     
    日本国民は、原子爆弾によって多くの同胞を失った唯一無二の国民として、世界諸国民と共にこの惨虐な兵器が再び使われることなく、科学の成果が人類の福祉と文化の向上のために開発利用されることを強く祈念する。日本国民は、原子力が将来の国民生活の重要な基盤のひとつとなることを期待し、自ら原子力研究開発利用に進む高逼な意図をもっている。この意図を実現するために、その事業の大綱を日本国憲法の精神にのっとり以下の条項によって規正する。

    第一条 原子力の平和利用を目的とし、原子兵器についての研究開発利用は一切行わない
    第二条 原子力の研究開発利用の情報は完全に公開され、国民は常に十分の情報に接しなければならない
    第三条 諸外国の原子力に関する秘密情報を入手利用してはならない
    第四条 原子力研究開発利用の施設に参与する人員の選択に当たっては、その研究技術能力以外の基準によってはならない
    第五条 同施設に外国人の投資を許さない
    第六条 原子力の研究開発利用に必要な物資機械の輸入には通常の商行為の方途以外の道を使ってはならない
    第七条 分裂性物資の国内搬入、国外搬出については、国会の承認を必要とする


    政府はこの憲章の精神にのっとり、原子力法案を作製し、原子力委員会を設けて原子力事業の統括奨励にあたらしめなければならない。原子力法案の作製、原子力委員会の設置については、原子力がいまだ研究の端緒にあるにすぎない事情を考慮し、日本学術会議に諮問して科学者の意向を強く反映しなければならない。

     
  3. 日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」(1954/3/20)
    本文書は、同委員会委員長の朝永振一郎が第三十九委員会(原子力問題専門委員会)委員長の藤岡由夫に提出した文書である。その内容は、中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7)のpp.27-28に紹介されている。
     本文書では、「不可欠の原則」として三点が挙げられているが、内容的には第1点目が「平和目的への限定」、第2点および第3点が「公開」原則・「民主」原則に関わるものである。すなわち、「あらゆる分野の数多くの研究者の衆智を集めて始めて可能になる」という文言は、原子力研究は応用的研究として数多くの様々な科学領域・技術領域を総合した研究となる、ということを示唆したものである。そしてまた最近のオープン・イノベーション論でにおいても強調されているように、数多くの様々な科学領域・技術領域を総合する開発研究の効率的遂行のためには、「研究の秘匿」ではなく「研究の公開」が有用である、という論理展開になっている。
     また本文書においても「自主」原則は、武谷三男(1952)「日本の原子力研究の方向」や伏見康治(1954)「原子力憲章草案」などの論考と同じく、明確な形では述べらてはいない。ただし少し強引な解釈ではあるが、軍事研究や民間企業における製品開発研究のように強い秘密保持制約を受けた原子力研究では「わが国に根をおろしたものにならない」とか、「外国から秘密のデーターを受けて研究する」ことは短期的には有効であるが、「長い目でみればマイナスである」とかいった文言は、「自主」原則を間接的な形で暗に示すものと言えなくもない。
     すなわち、強い秘密保持制約を受けた原子力研究では「日本に根をおろした」研究=「自主」的研究が育たない。「外国から秘密のデーターを受けて研究する」といったキャッチ・アップ型(追いつき型)=追従者型研究戦略では、機能面や性能面で他国に対する競争優位を持った研究力育成ができず、原子力に関していつまでも他国に「追随し続ける」だけで「追い越す」ことはできない。その意味で「自主」原則を追求しないことは長期的視点からは日本の国益にとってマイナスである、というような論理構成の中で暗黙の裡に「自主」原則が主張されているに過ぎない。
     
    「原子力平和利用は国民の福祉増進を目的として行われねばならず、そのためには、研究が正しい方向に健全に発展し、速かにわが国に根をおろして国民のものになることに留意せねばならない。研究の一部を分担する核物理学者として自信と責任をもって日的達成に協力し得るために、次の三点を不可欠の原則と考える。

    一、研究の目的からいっても、研究者が良心の圧迫なく協力し得るためにも、兵器の研究はすべて行わないとの保証が必要である。
    二、この研究は、あらゆる分野の数多くの研究者の衆知を集めて始めて可能になるので、常に研究状況が公表され、意見とデータの自由な交換によっていつでもいかなる研究者もがその知識と技術を提供して協力を得る素地を作らねばならない。発表が秘密という制限を受け、研究が閉じた集団の中でひそかに行われるのでは、遅々として進まないか不健全なものとなり、決してわが国に根をおろしたものにならないであろう。外国から秘密のデータを受けて研究することは一時の速度を加えるには役立つかもしれないが、長い目でみればマイナスである。
    三、真に研究能力・技術能力ある研究者に対しては、単に情報が示されるだけでなく、誰でも実際の研究に参加し協力することをこばまないことが必要である。真に能力ある研究者の参加を阻害し門戸を閉じるようなことがあってはならない。

     上の原則がみたされず、自由な空気の中で研究を進めることが出来ないなら、研究の発展は著しく阻害され、研究者は自信と責任もって協力できないであろう。以上の点は、原子力といわず近代科学の基礎として不可欠の原則である。原子力においてはとくに始めを正しくするという意味もあって強調する。
     以上の観点から、原子力憲章伏見草案(附一)第一〜四条のいわんとするところを支持する。第五〜七条は必要との印象をもつが、われわれの立場と能力を越えることなので言及しない

     

  4. 日本学術会議 第17回総会 声明(1954)「原子力の研究と利用に関し公開,民主,自主の原則を要求する声明」1954年4月23日
    https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/01/03-02-s.pdf

    「自主」原則は、本声明以前まで明確には定式化されてはいなかった。本声明においてはじめて、「公開」原則、「民主」原則、「自主」原則という3原則そろってが明確に規定された。
     本声明における「自主」原則の規定は、「原子力の研究は全く新しい技術課題を提供するものであり,その解決のひとつひとつが国の技術の進歩と国民の福祉の増進をもたらす」ものであるから、「日本国民の自主性ある運営の下に」原子力研究が行われるべきことであるという筋立てになっている。先にも述べたが「自主」原則のこうした規定は、日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」の中で暗に触れられていた、他国に対する日本国の持続的な相対的競争優位性の確保手段としての「自主」開発との関連で理解することができる。「
     
    第19国会は昭和29年度予算の中に原子力に関する経費を計上した.原子力の利用は,将来の人類の福祉に関係ある重要問題であるが,その研究は原子兵器との関連に•おいて急速な進歩をとげたものであり,今なお原子兵器の暗雲は世界を蔽っている.われわれは,この現状において,原子力の研究の取扱いについて,特に慎重にならざるを得ない.
    われわれはここに,本会議第4回総会における原子力に対する有効な国際管理を要請した声明,ならびに第19国会でなされた原子兵器の使用禁止と原子力の国際管理に関する決議を想起する.そして,わが国において原子兵器に関する研究を行わないのは勿論,外国の原子兵器と関連ある一切の研究を行ってはならないとの堅い決意をもっている.
    われわれは,この精神を保障するための原則として,まず原子力の研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され,国民に周知されることを要求する.この公開の原則は,そもそも科学技術の研究が自由に健全な発達をとげるため欠くことのできないものである.
    われわれはまた,いたずらに外国の原子力研究の体制を模することなく,真に民主的な運営によって,わが国の原子力研究が行われることを要求する.特に,原子力が多くの未知の問題をはらむことを考慮し,能力あるすべての研究者の自由を尊重し,その十分な協力を求むべきである.
    われわれは,さらに日本における原子力の研究と利用は,日本国民の自主性ある運営の下に行われるべきことを要求する.原子力の研究は全く新しい技術課題を提供するものであり,その解決のひとつひとつが国の技術の進歩と国民の福祉の増進をもたらすからである.

    われわれは,これらの原則が十分に守られる条件の下にのみ,わが国の原子力研究が始められなければならぬと信じ,ここにこれを声明する.
  5.  
  6. 内閣諮問機関「原子力利用準備調査会」綜合部会における1954年9月24日申し合わせ
    会長:緒方竹虎副総理、副会長:愛知揆一経済審議庁長官、委員:大蔵大臣、文部大臣、石川一郎経団連会長、茅誠司日本学術会議会長、藤岡由夫日本学術会議第四部会長。
    その内容は、中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7)のpp.27-28に紹介されており、下記のように「公開」原則、「民主」原則、「自主」原則という3原則に関連する内容が列挙されている。
     
    我が国における原子力の研究開発を進めるに当っては、平和的利用を根本原則としているので、下記の諸点に留意するものとする。一、原子力の研究開発に関しては、可及的に公開するよう努めること
    二、原子力の研究開発に関しては、衆知を集めるよう努力すること
    三、原子力の研究開発に関しては、努めて我国の自主性を損わないようにすること
  7.  
  8. 日本学術会議 第18回総会 申入(1954)「原子力の研究,開発,利用に関する措置について」1954年10月2日
    第17回総会声明に続き、第18回総会では原子力の研究・開発・利用に関して下記の7点の申入がなされた。第1点が「平和目的」への限定、第3点が「公開」原則、第4点が「民主」原則・「自主」原則に関わるものである。
     
    原子力の研究・開発・利用に関する措置について(申入)

    わが国で,原子力の研究およびその開発,利用をはじめるについては,政府において,少なくとも次の諸条件を保障するための措置をとられたく,ここに本会議第18回総会の議により申し入れます。

    1. 原子力の研究・開発・利用は,あくまで平和目的に限定し,その軍事的利用に導くおそれあるものの介入は,絶対にこれを排除すること。
    2. 原子力の研究・開発・利用は,もつぱら国民の福祉の増進,わが国の経済自立への寄与を目的とすること。
    3. 原子力の研究・開発・利用およびその成果に関する重要な事項は,すべて国民がこれを知ることのできるように,公開されること。
    4. 原子力の研究・開発・利用は,あくまで民主的な運営のもとに自主的に行われ,安易な外国への依存は,これを避けること。
    5. 原子力の研究・開発・利用に関係する機関の要員については,日本国憲法によつて保障された基 本的人権を,とくに十分尊重すること。
    6. 原子力の研究・開発・利用については,それにともなう放射線による障害に対する対策,特にその予防のために,予め萬全の措置を講ずること。
    7. 核分裂性物質または核分裂性物質の原料となる物質は,国民の利益のために,厳重に管理されるべきこと。

     
  9. 衆議院・科学技術振興対策特別委員会(1955年(昭和30年)12月13日) 中曽根康弘議員の法案趣旨説明および質問応答
    https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102303913X00419551213&spkNum=2&current=1

    冒頭で、下記のように、世界における原子力発電開発の見通しに関する極めて楽観的見解を述べ、日本がそうした世界的潮流に乗り遅れるべきではないことを法案提出の趣旨として強調してている。
    また「自主」原則の意義に関連する事柄として、「各国において非常な個性を持ったやり方をやっている」、「(世界の主要国は)みんな個性を持ったやり方で(原子力開発を)進めて」いるとし、日本においても日本の特殊性に対応した自主的=個性的対応の必要性を強調している。
     
    本原子力基本法案は自由民主党並びに社会党の共同提案になるものでありまして、両党の議員の共同作業によって、全議員の名前をもって国民の前に提出した次第であります。
    最近、各国における原子力の利用発達というものは、きわめて目ざましい速度で進んでおります。特に電力用の原子力の利用につきましては、イギリス、フランス、アメリカ等において目ざましい進歩をいたしておりまして、たとえば、すでに、イギリスにおいては、十カ年計画で百五十万キロの電力を開発する、二十カ年計画で四千万トンの石炭を原子力で代用しようという雄渾なる計画を進めております。フランスにおきましても、すでに発電用の一高炉五千キロワットのものが本年末に完成する予定でありまして、来年度にかけてさらにもっと大きなものを建設する予定である。三年以内にロアール川の渓谷に十万キロワット以上の発電炉を建設しょうという計画が電力会社などに進められております。アメリカにおいては、五年以内に二百万キロ程度の原子炉を開発するという計画を進めております。(中略)さらに、予算におきましては、たとえば、フランスにおきましては、毎年二百億円くらいの経費を出しております。従来は百億円ずつ出しておったのでありますが、本年以降四カ年間さらに百億円ずつ追加するということをきめまして、毎年二百億円の経費をこれに投じておる。イギリスにおきましては平均して五百億円の金をこれに投じておる。アメリカにおきましては年間八千億円の金をこれに投じておる。こういうような力の入れ方をしておるのであります。
    そうして、すでに、各国におきましては、実験炉の段階を越しまして、動力炉の段階に入っておる。そうして、この原子力の問題は、動力源、エネルギー産業の問題として提起されておるのであります。この点はわが国と著しく異なっております。と同時に、各国において非常な個性を持ったやり方をやっておりまして、その国情に合う機構なり研究態勢を進め、研究題目を探してやっておるのであります。たとえば、ヨーロッパ系統のやり方は、濃縮ウランを使わないで、天然ウランをとって、そうして黒鉛を中心としたやり方であります。アメリカの系統は、濃縮ウランを使った重水等のやり方であります。これはみんな国情によって自分たちの国の個性を出しているということと同時に、この利用の範囲におきましても、たとえば、北欧の国々は、ノルウエーは商船の研究をやるとか、スエーデンは鉄鋼の材質の改革をやるとか、フランスは採鉱の努力に著しい成績を示すとか、イギリスは経済的な合理性をもった発電計画を着実に進めるとか、アメリカは万般の工業に対する応用を中心としてこの問題を進めておるとか、みんな個性を持ったやり方で進めておるのであります。これらの点は、われわれが日本に原子力政策を確立する上に、きわめて注目すべきことであると思います。
    (中略)(日本における原子力の国策決定に際して考慮すべき)第三点は、長期的計画性をもって、しかも日本の個性を生かしたやり方という考え方であります。原子力の問題は、各国においては、三十年計画、五十年計画をもって進めるのでありまして、わが国におきましても、三十年計画、五十年計画程度の雄大なる構想を必要といたします。それと同時に、資源が貧弱で資本力のない日本の国情に適当するような方途を講ずることが必要であります。たとえば、発電の場合にいたしましても、濃縮ウランを使ってやるやり方が妥当であるかどうか。わが国の資本力等から見ますれば、当然、天然ウランを使って、重水あるいは黒鉛を使ってやる発電方式というのがわが国に適当であると、現在考えられております。濃縮ウランにあまりたよるということは、現在の状態においては、発電の原料等にすら外国の応援を得なければならぬということであって、これは原子炉研究あるいは原子動力の利用について自主性を失うおそれもあるのであります。こういう点につきましても、わが国の個性という点をわれわれは慎重に考える必要があります。
     
    「自主」原則に関しては、原子力基本法の第七章「特許発明等に対する措置」の中の第一八条との関連において次のように述べれている。
     
    特許の点につきましては、日本はまだ処女地であります。外国においてはすでに公知の事案であることが、原子力の部面においては、日本においてはまだ周知の事実でない。従って、外国が日本に来て特許を設定しょうと思えば、網の目を張りめぐらすようにできるかもしれません。こういうことになると、日本の自主的発達というものはきわめて阻害されます。そこで、外国から不当に侵入しようとするものを防渇して、国産原子炉、日本の自主的研究を促進するということを考えなければならぬ
     
    「公開」原則は、特許制度や秘密特許と抵触するものである。そのことに関して中曽根は、岡良一(当時、衆議院 科学技術振興対策特別委員会理事)の質問に対する回答の中で、現代における「アンチコモンズの悲劇」問題で取り上げられているように、「(特許は)研究を非常に阻害している向きがある」、「原子力の軍事利用では秘密保持が優先され、特許は秘密特許となり公開されない」という問題点を指摘している。
     
    特許の点はアメリカでも非常に問題になっております。と申しますのは、研究を非常に阻害している向きがあるのであります。アメリカの原子力研究は軍事利用から始まりましたから、秘密を守るということ、特許は公開しない、そういう点と、それから特許権は国家に帰属する、こういう見地からきておる。それは国家資本で開発し始めたという理由もあります。しかし、最近は、学者が念願することは、自分が新しく発明や研究したことは学界に公表したいという欲望が非常にある。しかし、今までアメリカの原子力法の関係から公表を許されないために、学者の方では自分の実績が学界に認められないという焦燥感がありまして、これをゆるめろという主張がありました。もう一つは、特許権が国家にのみ帰属してしまえば、本人には直接帰属はしないので、そうもうかるわけにもいかぬ。そのために研究心を非常に阻害しておる。その辺はもうゆるめたらどうか、ゆるめなければアメリカにおける原子力の研究は加速度的に伸びるととができない、こういう問題がありまして、AECでも特許の問題と秘密の問題は非常に悩んでおるようであります。それで、これらの点については徐々に開放していくような傾向にあるそうであります。
    日本におきましても大体それと同じような問題はあるのです。ただ、日本は軍事利用はやりません。従って秘密問題はないのです。
     
    また世界において、原子力開発が超党派的かつ長期的視点から計画的に推進されていること、および、超党派的推進のために原子力委員会といった「半独立自治機構」のもとに推進されていることを主張している。
     
    このように先進各国においては目ざましい進歩をしておる理由を調べてみますと、機構上におきまして、あるいは国民に対する啓蒙におきまして、非常なる努力を払っております。各国の共通の特色は、この原子力というものを、全国民的規模において、超党派的な性格のもとに、政争の圏外に置いて、計画的に持続的にこれを進めているということであります。どの国におきましても、原子力国策を決定する機関は半独立自治機構としてこれを置いておきまして、政争の影響を受けないような措置を講じております。たとえば、フランスにおきましては原子力委員会がある、イギリスにおきましても原子力委員会がある、アメリカにおいてもカナダにおいてもそうであります。これらの機関はすべて超党派的な性格をもって網羅して、国民全体が協力し得るような代表を整えておるのであります。
     
    原子力開発に関しては、超長期的視点からの取組が必要であるとして、核融合エネルギーの将来的利用にも言及し、「人類は無限大に向ってエネルギーを探す」としている。
     
    さらに、われわれが考うべきは、すでに原子力から進んで、世界の大勢は、核融合反応の利用にまで進んでいるということであります。原子力のエネルギーというものは、大体地球ができたころのエネルギーをとり出したわけでありますが、核融合反応になりますと、さらに進んで太陽ができるとろのエネルギーをつかみ出すということであります。石炭や石油というものは、百万年前後の昔のエネルギーを今われわれが使っているわけであります。原子力になりますと地球ができたころ、それからさらに、水素融合反応になると約百億年以前のエネルギー、あるいはさらに、最近新聞に出ている反陽子というようなものを使うことになると、宇宙生成のころのエネルギーということになりまして、人類は無限大に向ってエネルギーを探すということになっているのであります。こういうことが進められるということは、われわれの文明に非常なる変化を予想せしめるものであって、われわれとしてもこれを等閑に付することはできないのであります。
     
    被爆国として被爆問題に起因する核アレルギーへの対応に関連して、原子力は、活用困難=制御不可能な「猛獣」ではなく、活用可能=制御可能な「家畜」であると主張することで、地震国日本における原子力発電所等の「安全」問題への言及を無意識的にか避けている。
     
    すでに、外国においては、原子力はかっては猛獣でありましたけれども、今日は家畜になっておる。遺憾ながら日本国民はまだこれを猛獣だと誤解しておる向きが多いのです。これを家畜であるということを、われわれの努力において十分啓蒙宣伝をいたし、国民的協力の基礎をつちかいたいと思うのであります。
     
    提案趣旨説明の最後において、「何で日本の国際的地位を上げるかといえば、中立性を持っておる科学技術特に原子力によって日本の水準を上げて、それによって国際的にも正当なる地位を日本が得るように努力する。」といったように、「科学立国論」的視点からの議論が下記のように展開されている。
     
    日本の現在の国際的地位は戦争に負けて以来非常に低いのでありますが、しかし、科学技術の部面は、中立性を保っておりますから、そう外国との間に摩擦が起ることはありません。われわれが国際的地位を回復し、日本の科学技術の水準を上げるということは、原子力や科学によって可能であると思うのであります。日本が経済的に進出すればイギリスその他の国を刺激いたします。軍備によって膨張するということは今日許されません。何で日本の国際的地位を上げるかといえば、中立性を持っておる科学技術特に原子力によって日本の水準を上げて、それによって国際的にも正当なる地位を日本が得るように努力する。そういう点からいたしましても、基本法を早期に提出して日本の態勢を整えることが、非常に重要な意味を持つと思います。
     
    原子力の利用を「平和」目的に限定し「軍事」目的を認めないことに関しては、「自主」原則と関連させながら、岡良一(当時、衆議院 科学技術振興対策特別委員会理事)の質問に答えて下記のように述べている。(岡良一の質問の趣旨は、「原子力は、戦争の目的に使われ、そうして大きな不幸をまず日本民族に浴びせかけました。」とした上で、「(平和目的という)初期の目的とは反する方向に用いられないという保障」はどこにあるのか、ということである。)
     
    日本におきまする原子力の国策というものは、あくまで平和のために行うという厳然たる原則があるのでありまして、われわれが自主的に行う研究がかりそめにも軍事部面に及んではならぬ、そういうことを規定しておるわけであります。従って、日米濃縮ウラニウム協定におきましても、非軍事的利用というタイトルすらつけてあり、また秘密は渡さないという条項も念入りに入っておるわけであります。そういう国際協定の方面並びにわが国における基本法の内容等におきまして、平和以外のことは一切認めておらないのでありますから、事わが国の研究に関する限り、またわが国の利用に関する限り、自主的に行うものについて軍事的な部面にわたるものはないものと、われわれは考えております。
     
    わが国の自主的立場においては、あくまで原子力というものは平和に利用しなければならない。アメリカ側が何をしょうが、ソ連が水爆を持とうが、それは外国の、ことでありますから、間接的であります。しかし、事日本に関しては、純粋生一本に、われわれはこれは平和利用にのみ限定すべきであるという厳然たる意思表示をすべきであると思います。
     
  10. 中曽根康弘(1956)「原子力基本法の意図するもの」『時の法令』(雅粒社)196、1956年2月3日、pp.14-17
    https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I496653
    https://dl.ndl.go.jp/pid/2783782/1/9

     
  11. 堀純郎(1956)「原子力の平和的利用について」『電氣化學』24巻4号、pp.149-
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/denka/24/4/24_149/_article/-char/ja/

    本稿は、堀純郎が1955年(昭和30年)10月24日に電気化学協会中部支部北陸地方大会でおこなった特別講演の記録である。残念ながら本稿では、原子力基本法や原子力三原則に関する議論はない。「原子力とは何ぞや」、「原子力の応用」、「原子力の経済性」、「産業への利用」ということに関する通俗的解説である。
    内容としては、「1gの物質が消えると20兆カロリーのエネルギーを生ずる.20兆カロリーとは,0度の水20万tを沸騰させる事が出来る莫大なエネルギーであり,3000tの石炭に相当する.」とか、「原子力の利用に成功すれば人類は(エネルギー問題に関して)当分悩まなくてもよい事になる。」、「原子力発電によつて電化が促進され輸送面に大なる影響が現われる.原子力汽船や原子力潜水艦は考えられる.」といった20世紀初頭から戦中・戦後期にかけてなされてきた楽観的議論が中心であり、地震国日本における安全性問題などの問題点にはまったく触れていない。
    また原子力を利用した原子力産業の新興について、「以前は重水等は振り向きもされなかつたが,重水の利用から重水工業が興る.更に黒鉛はこれ迄電極や鉛筆の芯として使用されていたが,原子力産業に使う黒鉛は桁はずれに純粋なものが必要となるのでこの方面の黒鉛工業が発展する.」といった議論なども展開されている。
     
  12. 中島篤之助(1978)「原子力三原則の今日的意義」『法律時報』50(7), pp.27-37の第2節「原子力三原則成立の歴史」、第3節「原子力三原則成立の背景」
    https://www.nippyo.co.jp/shop/files/downloads/SHINSAI/PDF2/jihou_50_7_p27.pdf

    第2節「原子力三原則成立の歴史」では、学術会議における三原則の討議経過を中心とした紹介がなされている。第3節「原子力三原則成立の背景」では、原子力基本法制定当時における「核兵器開発」と「原子力発電」という二つの背景的要因が分析されている。
     
  13. 『原子力三原則の重要文献集[限定版] 原子力三原則25周年記念出版』原子力問題全国情報センター、138pp[同書表紙]
  14. 国立国会図書館には納本されてはいない。東京都立中央図書館には所蔵されている。
     
  15. 伏見康治ほか(1985)「学術会議と三原則」島村政策研究会[開催日:1985年7月11日、講師:伏見康治(大阪大学教授、名誉教授、名古屋大学教授、名誉教授、日本学術会議会長、参議院議員)、出席者:島村武久、藤波恒雄、田中好雄、別府正夫]
    「島村原子力政策研究会資料1」、pp.14-24

     
  16. 茅誠司ほか(1985)「学術会議と原子力事始め」島村武久原子力政策研究会[開催日:1985年11月29日,講師:茅誠司(北海道大学教授、東京大学教授、学術会議会長、東京大学学長),出席者:島村武久、藤波恒雄、別府正夫、杉本栄三、堤佳辰、石川欽也、林弘]
    「島村原子力政策研究会資料1」、pp.25-44

     
  17. 大塚益比古ほか(1985)「伏見先生と学術会議」島村武久原子力政策研究会[開催日:1985年9月26日,講師:大塚益比古(大阪大学、電源開発),出席者:島村武久、別府正夫、石川欽也、坂内富士男、今村努]
    「島村原子力政策研究会資料1」、pp.71-96

     
    第39委員会についての記述がpp.76-80にある。同記述によれば、工学系の会員は原子力発電は非現実的な話だと考えたため、誰も第39委員会に参加しなかった。
     
    「(大塚)(茅・伏見提案)が潰れて第三十九委員会ができた。ところが第三十九委員会も、さっき挙げたお名前でだいたいお判りでしょうが、前芝さんも小棕さんも、ご熱心な方はだいたい左派系の先生方でして。その時は五部なんて工学関係はもう冷たくて、というか無関心で、委員なんか出してくれんのですよ。
    (島村)計23名って書いてあるけど結局はこの位の少人数の委員会になった:
    (大塚)そうなんです。五部・工学、六部・農学、七部・医学からは委員が出て来なかったんです。もう工学の先生なんていうのは、後で伏見さんの書いたものにもありますけれども、原子力発電なんていうのは、現実とは誰も思ってないですから、もう大体委員も出てこない。それと法律とか経済の方からこういうところに出てくる先生は、いずれも左派系ですから、政府なんていうのはおよそ信用ならんっていう、戦争中のあれを持ってる先生ですから。そんな平和利用といったってそうはいかないよ、いつ何時軍事利用にならんとも限らんとか、伏見さんあたりは公開だとか何とかって、それはそう簡単にはあれだとか。」(p.77)
     
    第39委員会と原子核特別委員会の関係についての記述がpp.85-86にある。
     
    (大塚)原子核研究連絡委員会を発展的に解消して、原子核特別委員会というのをつくりよったんです。原子核特別委員会は原子核研究者が集まって、これは理論も実験も含めてですが、この人たちは結局非常に、その当時の言葉では民主化が進んでおりまして、学校の枠に囚われずに相互の情報交換から何から非常に熱心にやってた組織なんですが。それが、もっと大型の加速器をつくろうじゃないかとか、これがあの田無の原子核研究所につながるんですが、そういうことで原子核の物理学者のそれこそ超一流のメンバーでできてる委員会だったんです。
    ですから、朝永はもちろんですけど、湯川秀樹、坂田昌一、伏見康治、武谷三男、何とかかんとかっていうような大体もうその当時の理論、実験の大御所が全部集まった恐ろしい委員会がありまして、それが横目で伏見さんの原子力の動きを、いろいろな意味で利害関係があるもんですから、非常に見ておったし、伏見さんもその委員ですから、そこで自分の三十九委員会での動きだとか何とかをもちろん積極的に報告もし、議論もしてもらってたんです。ですから原子核特別委員会とそれの全国的な下部組織とは、当時伏見さんの動きに対してはいろいろな意味で非常に密接に関わってて、それはさっき申しましたように、決して支持する側ではなかったんですけども。伏見の憲章案も、早速原子核特別委員会の方に出まして、この時は何か記録、伏見さんの書いてるのを見ると、この3月に2日がかりで原子核特別委員会がこの議論をしとるんです。
    その当時どういう議論したかっていうと、もう原子力予算は出たし、いずれ日本で原子力研究が始まる、その時に、我々原子核研究者はこれに参加すべきか参加すべきでないかつてな議論がずいぷん真剣に行われたんです。その時に条件を出そうってことになりまして、それがまとまって、原子核研究者として原子力に、こういう条件が満たされない限り協力はしないという、彼らの言う三原則っていうのがその時できたんです。それを踏まえて朝永委員長がまとめまして、第三十九委員会の委員長の藤岡由夫宛に文書でもって意見の申し入れをやったのが。
    (島村)これ3月18日ってやつですね。
    (大塚)これは手紙は3月20日付けになってますが。
    (島村)3月20日付け。18日に決めたんですな。
    (大塚)はい。そこに三原則のはしりみたいなものが、そこに出ておりまして。それはしかし原子核研究者が、こういう条件が満たされない限り原子力には協力しないぞという三原則なんです(以下、略)
    (pp85-86)
     
    大塚は、日本学術会議第17回総会において原子力三原則に関する声明が採択されたことに関して、伏見康治の役割とともに、朝永振一郎が委員長をしていた原子核特別委員会の役割が大きかった、と述べている。すなわち、伏見康治は朝永振一郎に「いじめられた」という印象を強く持っているが、客観的には朝永振一郎は原子力三原則の採択に大きな寄与をした、と述べている。
     
    「(島村)いや非常に、文献を揃えてのお話で、非常に有意義でした。大体私も、言われてみり や読んだことのある、今も探してみたんだけど、朝永さんの手記に詳しく出てるのがひと つありますけど。最後のお話にあった朝永委員会、原子核特別委員会のアドバイスが非常にあったってことは、藤岡さんのあれにも書いてあるんですよ。」(p.89)
    「(大塚)伏見先生の印象は、原子核特別委員会行くといつも少数派で。結局、理研におられた杉本朝雄と後に原子力委員になった武田榮一と、伏見・杉本・武田だけが原子力推進の少数派で、後は武谷三男だとか何とか強面の人ばっかりで、いつもその席ではいわばいじめられる側だったし、朝永先生はそんな、極めて温厚そうだけれども決してそんな推進派の肩持つようなことはされなかったですから、まあ原子核特別委員会ではいじめられたという印象が–。
    (島村)の方が強かったわけですな。
    (別府)朝永さんは相当固いことをおしやいました。
    (大塚)そのことは、ここに、伏見さんの書いたものの中に出てきます。やっぱり、ずいぶんいじめられたっていう感じが。
    (島村)三原則問題に限って、お聞きしたつもりだったんだけど。朝永さんの書いたものによると、三原則ができるには、原子核委員会ですか、そっちの方のなにがあったそうじゃないですかって言ったら、伏見さんがいやそんなことはありませんって。印象で(笑い)全て話しておられるから。これで見ると、やはり強力な支援であったわけですな。
    (大塚)そうですね、組織として議論すると、後から見るとやはり強い支援だと思います。やっぱりちゃんとその七か条本気で取り上げてくれて、ちゃんと文章にして総会までの間に処理してくれたのは、朝永委員会だけであって、肝心の三十九委員会なんかは。
    (B)委員長あまりやらなかったみたいですね。
    (島村)尻切れとんぼになっちゃって。
    (大塚)議論ばっかりやってますけど、そんな整理してやってないわけですから。やっぱり一番強硬な原子核特別委員会の連中が、四条までは支持したぞってのは、逆に非常に大きな総会での扱い易さがあるわけです。
    (島村)三十九委員会だけじゃなくて。
    (大塚)だから三か条を原子力三原則として持ち出した時に、総会が通ったわけです。」p.89
     
    大塚は、「公開」原則の具体的運用の問題について、下記のように「アメリカの原子力研究は一切が秘密だった」ことへの批判論として理解すべきで、「主張した人たち自身が研究の途中でまで公表しろとか、そんな細かい議論を当時はしてないです。」としている。
     
    「(坂内)それからもう一つ、三原則の公開の原則なんですけども、今でも、成果の公開なのかそれとも研究の一個一個の進拣まで全部公開なのかって議論があるんですけど。このスタートからのお話ですと、研究状況の公表とかっていうことが、これは資料のどこでしたか。
    (大塚)研究と利用に関する一切の情報が完全に公開され、国民に周知されることを要求する、となってます。
    (坂内)ここの三原則の前に、原子核研究者の原子力に対する三原則というこちらの方の中で、核兵器に繋がるような研究じゃないことを保障しようとか、二番目にその研究状況の報告があって、さっき読まれたと思うんですが。
    (大塚)朝永先生のやつですか。
    (坂内)そこの中に研究状況を逐次公表ってな言葉が。
    (大塚)「常に研究状況が公表され、意見とデータの自由な交換によって」と書いてあります。
    (坂内)その辺の思想が、ずっと公開に繋がっているとすると、そもそもの公開ってやつは研究を全部公開してやらにやいかんというところに行くのかなあ、当時のあれからしますと,そういう発想だったようですね。
    (大塚)いや、そんなにあれなんですよ。むしろ、当時はご存知のようにジュネーブ会議の開かれる前ですから、アメリカの原子力研究は一切が秘密だったわけです。だから非常に一切を公開しろという主張があるわけでして。主張した人たち自身が研究の途中でまで公表しろとか、そんな細かい議論を当時はしてないです。」(p.90)
     
  18. 大塚益比古(1987)「原子力三原則の誕生」『日本物理学会誌』42巻1号,pp.70-71
    https://doi.org/10.11316/butsuri1946.42.1.70
  19.  
  20. 大槻昭一郎(1987)「原子力三原則について思い出すこと」『日本物理学会誌』42巻1号,pp.73-74
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/42/1/42_KJ00002749060/_article/-char/ja

    「公開・自主・民主」に関して、当時の若手物理学者の感覚的理解に関する興味深い証言がある。
     
    「「公開・自主・民主」という言葉は,たぶん私に限らず同世代の多くの人にとって,いと輝かしい響ぎをもってきこえる.当時感覚的には,公開は広島・長崎と惨禍をもたらした原子力の軍事利用と縁を切るための,白主は輸入に頼ることなくまた米大統領の原子力プール案(1953年暮)が意図する管理体制に組み込まれないための, そして民主は現総理大臣がいみじくも言った「札束でぶんなぐられた学者」(1954年3月)が原子力の研究開発を独占しないための,それぞれよりどころとして理解していたと思う.」(p.73)
    「1958年の国連主催原子力平和利用第2回国際会議(議長F. Perrin)への基礎物理分野からの代表のなかに私は加えられた.代表団長こそ湯川秀樹先生であったが, 日本の基調報告とでもいうべきものを行ったのは当時経団連会長であった石川一郎氏であった. 第1回会議(1955年,議長 H. Bhabha)の藤岡由夫団長にたいしては、三原則を報告してこなかったという批判が出たときいていたが, もはやそのような情況は通りこしていた.核融合についてバラ色の夢がえがかれる一方で水爆の「平和」利用についての講演(E.Teiler)さえあり,原子力にたいする軍事の重圧をあらわに示していた.」(pp.73-74)
    「その後ほぼ30年を経たが,私は原子力三原則にたいして若手のときと基本的に同じ見解をもっている.」(p.74)
     
  21. 堀純郎ほか(1988)「初の原子力予算」島村政策研究会[開催日:1988年12月21日、講師:堀純郎(通商産業省、科学技術庁、原子力船事業団、理化学研究所)、出席者:島村武久、田中好雄、元田謙]
    https://level7online.jp/wp-content/uploads/2019/01/%E5%85%AC%E9%96%8B%E7%94%A8_%E5%B3%B6%E6%9D%91%E6%94%BF%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%EF%BC%92.pdf

     
    堀純郎は原子力基本法制定当時は、通商産業省に在籍し、朝永振一郎と原子力三原則について話しあったとし、自主・民主・公開に関する朝永振一郎の説明について自らが朝永から受けた説明を紹介している。「企業は自社競争力の維持・増大のために研究機密の非公開を必要とする」といったことと「公開」原則との齟齬に関して朝永は理解がなかったなど、その説明内容は興味深い。
     しかしながら「民主」原則や「公開」原則に関する堀の説明は、朝永が委員長をしていた日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」における規定と若干の齟齬があるように思われる。
     例えば、「民主」原則に関して、「人間のいろんな身分、別に身分があるわけじゃあないでしょうが、貴族であろうと最低の階級であろうと、どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと.それからどういう思想があろうと、どういう人でも平等に原子力に参加出来るようにしなくちゃいかんという話」だとしているが、これは原子力に関わる民主主義的討議に関する説明としては一定の妥当性があるが、日本学術会議原子核特別委員会(1954)「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」における内容とはかなりの差がある。「わが国の原子力研究についての原子核物理学者の意見」では、「どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと」という無限定的開放ではなく、「真に研究能力・技術能力ある研究者に対しては・・・参加を阻害し門戸を閉じるようなことがあってはならない」というように学力・専門能力に関する限定が付いている。
     また「自主」原則に関して、堀は「自習でやるんだ、人から教わらない。」と朝永が述べたとしているが、それは「外国の秘密の知識は一切教わらない」、「外国と秘密な関係は一切結ばない」という「公開」原則に基づく朝永の説明をすこし歪曲した表現ではないかと思われる。「(完全に)自習でやるんだ、人から(まったく)教わらない。」ということは、いわば完全な「自力更生」主義であり、「自主」原則の理解としては適切とは思えない。実際、日本学術会議第18回総会申入(1954)「原子力の研究,開発,利用に関する措置について」では、「安易な外国への依存は,これを避けること」
    という形で「自主」原則が規定されている。また日本学術会議第18回総会で藤岡由夫は、「自主」原則に関して「日本にどうしてもないもの、日本ではどうしてもできないもの、そういうふうなものを外国から輸入しなければならぬようなものがあることはむろんやむを得ないと考える」と述べている。
     なお「自習でやるんだ、人から教わらない。」ということは、「日本人科学者・技術者が国際的成果に学ばずに、すべて自前でやるべきだ」という「科学に国境あり」という考え方である。科学・技術に関するそうした「鎖国」主義的発想は、当時の科学者も重視していた科学における国際協力・国際貢献を重視する「科学に国境なし」という科学研究に関して広く受け容れられている暗黙の前提に反する考え方である。すなわち、自然科学研究者は、国を超えた知的共同体としての科学者共同体の一員として自らを位置づけることで「科学に国境なし」と主張しているのであるから、「(完全に)自習でやるんだ、人から(まったく)教わらない。」というような考え方を取ることはほとんどない。
     「自主」原則を、「すべて外国から教わるのだ。日本では独自の科学研究・技術研究をやる必要はない。」という議論の否定として捉えるのが不適切なのと同じく乱暴な議論と言わざるを得ない。
     
    上野にありました日本学術会議、今は六本木に引っ越しておりますが、そこでいろいろやったようです。これも大分時間が掛かりましたが、相談をした結果、原子力の開発については7原則が必要であると決めて、政府側に持ってまいりました。現在は、 俗に3原則といわれていますが、僕は本当は4原則か5原則じゃないかと思うんですが、 原子力基本法では平和・自主・民主・公開です。これだけで4原則。それに国際協力と言っておりますので、5原則というのが本当だろうと思います。平和と自主、民主、公開の3原則を掲げたほかに、三つ言って参りました。
    その一つが、原子力の開発は福祉と経済に寄与するものでなければならない。次は、核物質の管理を厳重にしろと、これは当たり前のことだと思います。その次は放射線障害に万全の策を講じろと言うことで、これも別に何ということもない当然のことを言って来たと思います。そういう7原則を言ってまいりました。7原則がだんだん詰まって3原則になったと思いますが、3原則にも色々問題がありました。当時私は朝永振一郎さんとこれを話し合ったことがあります。その頃原子力のことで国会に行って反対された中心をなしていた のは、もう今は亡くなりましたが茅誠司さんと藤岡由夫さんと朝永さんの3人です。この方たちは自分の意見だけじゃなくて、大分自分の意見もあったようですが、それにプラスして、学術会議の意向も代表しておられたように感じました。
    朝永さんと、自主・民主・公開というのはどう言うことかと話し合ったのですが、先ず自主というのは、外国から物を輸入したり、技術導入をしたりしないということ. 日本で全てやるんだ、自習でやるんだ、人から教わらない。それじゃあ本を読むのはどうだと訊き ましたら、学問に国境はないから本を読むのはいいと。それじゃあ留学はどうかといったら、ここらへんは難しいところのようでしたが、心の底の見えみえしているのは、留学は皆がしたくてしょうがないようでした。だから筋が通ったり、通らなかったり.しかし、その後3原則は法律に入りましたが、今朝永さんのおっしゃるような自主ですと、まったく100%これは守られていない。憲法9条が自衛隊で守られているかいないかいろいろ三百代言的な意見もありますが、これに比較してもはるかに守られていないというのが実態だろうと思います。自主は完全になしということです。
    それから民主は何だと申しましたら、人間のいろんな身分、別に身分があるわけじゃあないでしょうが、貴族であろうと最低の階級であろうと、どんな学歴であろうと、どんな専門であろうと、それからどういう思想があろうと、どういう人でも平等に原子力に参加出来るようにしなくちゃいかんという話なんです。それは憲法の基本的人権として当然保証されていることで、なにもわざわざ今騒ぐ必要はないじゃないかと申しましても、憲法なんか当てにならん、こういうことは、より権威のある学者の間で確立しておくことが必要だという意見でした。これは当然憲法で守られていることで何等問題ないことで、3原則に入っても守られてきていることです。

    それから公開については、この原子力の結果は全てガラス張りで公開しなくちゃいかんということでして、それでは政府が税金でやっている仕事は、全て国民の財産であるから 公開して問題は無いけれど、企業が自分のお金でおやりになったことに公開を求めても、企業の機密というのはあるだろう、それはどうだといいましたら、どうも企業の秘密というようなことはお分かりにならんようで、要するに学問というものはなんでも万人の共有の財産であるという観念のあれでした。煎じ詰めてみると、発電する発電するとやっていながら、いつの間にか爆弾をつくっていたりすることがあっては困るから、それを見えるようにしてくれということのようでした。まあ朝永さんとお話して、これが学者の中では 一番頭のいい方だと私は思いますから、朝永さんがそういう風に明快におっしゃっていた ので、これが真相じゃないかと思います。
    こういう条件は、その後政府でも大部分を受け入れると言うことになりまして、問題は無くなりました(pp.130-131)
     
  22. 吉岡斉(1999)「科学界の対応と原子力三原則の成立」(旧版1999,新版2011)『原子力の社会史』朝日新聞出版、第3章2節、pp.74-80
    吉岡斉(1999)は、第17回総会声明における「自主」原則の追加に関しては伏見康治の役割が大きいとして、p.78で下記のように記している。
     
    (第17回総会声明議案で)示された三原則は、朝永報告のそれと二つの点で異なっていた。第一は「平和」 がそれ自体としては原則の地位から外され、三原則の遵守によって維持されるべき目的へと、位置づけを変えたことである。第二は「自主」が新たに追加されたことである。学術会議声明の草案を まとめた伏見康治が、朝永報告における第五条以降(いずれも「自主」原則にかかわる)の削除を不満とし、草案作成者としての地位を利用して、「自主」原則を復活させたものと考えられる。そして 「自主」の追加にともない、「平和」が三原則から外される結果となったのである。これは相当に大きな修正であったが、関係者の間からなぜか批判は出されなかった。
     
    また吉岡斉(1999)は、日本の原子力開発利用の歴史に関する多数派の見解を「三原則蹂躅史観」として批判し、原子力三原則の歴史的意義およびその成立過程に関して下記のように記している。
     
    「多くの人々が、日本の原子力開発利用の歴史を描く際、「三原則蹂躅史観」を採用するようになった。そこでは三原則が原子力政策の正しさのほとんど唯一の評価基準とされ、また三原則を提唱し定着させた科学者たちが賢者として描かれてきた。そして政・官・財界は三原則をくり返し蹂躍しながら安易かつ拙速に原子力開発を進めてきたとされてきた。この史観に立つと、原子力開発史は三原則をめぐる政・官・財界と、国民の利益を代弁する良心的科学者集団との攻防の歴史として描かれる。
     だがこの史観には三つの大きな欠陥がある。第一は、日本の原子力体制の構造と、その形成・展開のダイナミックスに関する体系的分析が阻害され、「あるべき姿」からのズレという観点からの分析で話が完結することである。」pp.78-79
    第二に、原子力の「あるべき姿」に関する「三原則」的観念はいちじるしく貧困なもので、政策論のガイドラインとして有効に機能してこなかった。たとえばそれは原子力分野での産業技術政策の適切なあり方について、ほとんど示唆するところがなかった。」p.79
    この史観の第三の欠陥は、原子力体制の草創期の科学界の動きについて、バランスのとれた全体像を描くことを阻害している点である。この時期の科学界の動きは大局的には、政・官・財界のイニシアチブで形成された原子力体制への、科学界の協力・便乗過程として理解することができる。(中略)三原則は賢者たちの良心的思想というよりもむしろ、物理学者のなかの積極推進論者と批判論者の共通の利害関心のうえに形成されたものであった。それは科学者にこそ原子力政策の決定権があると信じていた彼らが、政治家によってその自尊心をいたく傷つけられたあとに、いかにも賢者的な後始末によってみずからの存在証明を勝ちとるとともに、原子力予算可決という既成事実を、批判論者を含めた科学界の大方が満足できるような線で追認することの大義名分を獲得することへの、共通の利害関心にねざすものであった。物理学者たちはそうした共通の利害関心を満たすべく、いわば政治家以上に政治的に行動したのである。」pp.79-80
     
  23. 小沼通二(2002)「向坊隆先生と原子力平和利用3原則」『日本原子力学会誌』44巻6号、pp.492-493
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesj1959/44/6/44_492/_article/-char/ja
  24. 小沼は、伏見康司と武谷三男が原子力に関わる原則について1952年当時「ほとんど同時期に同様な考え」を発表していることについて1992年に二人に質問した。すなわち、「1992年に,お二人が事前に議論されたのか,あるいは事前に相手の書いたものを知っていたかお尋ねした。」が、「答えはお二人とも「事前の議論はなかったし,まったく知らなかった」ということであった。(p.43)
     
  25. 伏見康司ほか(2007)「日本学術会議と戦後の原子力開発」『先学訪問 物理学者 伏見康司 編』(聞き手 井口洋夫)学士会、2007年、66pp所収[小見出し「猛反対を受けた原子力研究再開」(pp.32-37)、「原子力憲章草案」(pp.38-42)
    http://anemone.edokusho.jp/browse/sengaku_009/32

    伏見康司は、下記引用に示すように、原子力発電に関して「物理的な現象を利用するだけの話だと思っていました」「(原子炉の建設は)そう大変なこととは思っていませんでした」と回想するなど、物理学的視点から原子力発電所問題を捉えていた。
     
    p.30における伏見発言「当時の学術会議では、工学系の先生方の間で原子力に対して否定的な空気が支配していました。私としては、どうして原子力が持っている潜在能力を工学系の先生が認めなかったかが不思議でしたね。推進したのは、物理の茅誠司先生と伏見だけ。」
    p.31における伏見発言「自分の物理的センスだけで原子力を考えていました。」
    p.41における伏見発言「(「物理学者の立場では、原子炉の建設はそう大変なことではないというお考えでしたか。」という井口洋夫の質問を受けて)そうですね。そう大変なこととは思っていませんでしたね。原子、というより原子核というほうが適切ですが、その物理的な現象を利用するだけの話だと思っていましたから。ただ残念ながら、原子力利用ということでは、原子爆弾が先にできてしまいましたから、原子力というと核兵器のことだと連想する人が多くなってしまいました。」
     
  26. 山崎正勝(2016)「平和問題と原子力:物理学者はどう向き合ってきたのか」『日本物理学会誌』71(12)の「4. ビキニ事件の衝撃:学術会議原子力三原則とラッセル・アインシュタイン宣言」
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri/71/12/71_848/_pdf

     
  27. 野口貴弘,雨宮高久(2017)「伏見康治の原子力に対する初期の見解」『平成29年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集』1171 O-28
    https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/61/pdf/O-28.pdf

     
  28. 野口貴弘,雨宮高久(2018)「武田栄一と原子力」『平成30年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集』1179-1180 O-20
    https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/62/pdf/O-20.pdf

    本論文では、武田が戦前から原子核反応の工業的利用に注目していたこと、また終戦後は原子炉を用いた原子力研究に関する具体的言及を行っていることを指摘するとともに、多くの物理学者が原子力予算に対して批判的な見解を述べたにとを批判し、政・学・民の融合を主張した、と指摘されている。
     さらにまた武田は、「原子力に関して多くの秘密が存在する現状」では諸外国が日本に対して原子力に関する情報や原子力関連の資源を提供したがらないことは、「我国の科学及び技術を正直に導き,世界の水準まで引き上げるための絶好の機会である」と主張した、と指摘している。武田は、武田栄一(1954)「原子力発電の見通し」『電気協会雑誌』Vol.367,No.23 pp.97-102において逆説的な言い方であるが、原子力に関する情報や資源を外国が秘匿しようとしているがゆえに、日本国内で原子力を自主的に研究することが必要であるを強調した。.
     
  29. 尾関章(2021)「原子力3原則が法律になった事情/軍事をなによりも警戒した」[学術会議史話―小沼通二さんに聞く(2)]論座アーカイブ、2021年06月21日
    https://webronza.asahi.com/science/articles/2021061300002.html

     
  30. 尾関章(2021)「原子力3原則が法律になった事情/政治は米国の顔色を見ていた」[学術会議史話―小沼通二さんに聞く(3)]論座アーカイブ、2021年06月21日
    https://webronza.asahi.com/science/articles/2021061600005.html

     
  31. 猪鼻真裕(2025)「日本の原子力研究黎明期における日本学術会議内の意見の多様性と研究推進の内発的動機」『言語社会』(一橋大学)第19号、pp.262-279
    https://hdl.handle.net/10086/85177

    日本の原子力研究黎明期の1952年から1954年における、原子力研究推進に関する日本学術会議内の意見の多様性と研究推進の内発的動機について分析したもの。主な一次資料として、日本学術会議図書館所蔵の『日本学術会議総会議事速記録』や『日本学術会議総会配布資料』、核融合科学研究所核融合アーカイブ室所蔵の伏見康治資料を用いている。
     そうした一次資料に基づき、下記のような興味深い指摘がなされている。

    1. 内閣諮問機関として1954年5月11日に設置された原子力利用準備調査会の1954年9月24日の総合部会において、「公開」原則は「可及的に公開するように努めること」に、「民主」原則は「衆知を集めるよう努力すること」になど、日本学術会議の原文と異なる内容・文言ではあるが原子力三原則の確認が行われたこと(pp.271-272)
    2. 1954年10月20日の日本学術会議第18総会では、原子力利用準備調査会総合部会のそうした確認に関して、日本学術会議の原子力三原則の趣旨を逸脱するものとして批判があったこと(p.272)
    3. 1954年4月23日の日本学術会議第17総会三日目に森戸辰男(社会政策学者・元衆議院議員・元文部大臣・広島大学初代学長)が「公開」原則に関して、「一切のものが完全に公開されなければならぬということになりますと、よほど問題が起って来る」と述べたこと(p.272)
    4. 1954年10月20日の日本学術会議第18総会において藤岡由夫が、「公開」原則との抵触で問題としているのは、「政治的な意味における秘密、たとえば軍事機密」であり、「商業上の秘密」を問題にしてはいない。また軍事目的の原子力研究と商用目的の原子力研究を分けて考えている。(p.272)
    5. 1954年10月20日の日本学術会議第18総会において藤岡由夫は、「自主」原則に関して、「日本にどうしてもないもの、日本ではどうしてもできないもの、そういうふうなものを外国から輸入しなければならぬようなものがあることはむろんやむを得ないと考える」と述べている。すなわち、藤岡は、「自主」原則とは「初めからプラントを輸入すればよいんだというような、そういう安易な考え方でおってはいけない」という意味の主張であると説明している。(p.272)
     
 
【筆者作成の関連参考資料】

佐野正博(2025)「原子力の産業的利用に先行する出来事1945-1966」

カテゴリー: ダウンロード可能資料, 原子力三原則 | 原子力三原則の成立史関連資料 はコメントを受け付けていません

原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介PDF(拙稿)

原子力利用に関する批判的検討のための資料を紹介した拙稿のPDFに下記がある。Part1とPart2は、『技術史』(日本科学史学会技術史分科会)No.9-13において公刊済みであるが、Part3は未定稿であり、まだ公刊していない。

  1. 原子力発電実用化前の原子力利用推進論:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介part1 Ver9.2(PDF)
  2. 原子力発電関連文献ガイド:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介Part2 Ver7.2(PDF)
  3. 原子力発電擁護論 vs 原子力発電批判論:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介part3 Ver4-4(PDF)
 

1. はじめに 2
 (1) 分析視点 2
 (2) 1940年代後半期~1950年代の日本における原子力の非軍事的利用に関する文献資料 3
 (3) 戦後から1995年までの国会審議における原子力をめぐる議論 7
  
2. 原発実用化前の段階における原子力をめぐる社会的言説 — 新技術のスタートアップ問題という視点からの考察の必要性 — 9
 (1) 新技術の実用化におけるスタートアップ問題 — 技術革新の遂行に必要とされる「研究開発時間の長期性」、「研究開発費用の多額性」、初期製品の「高製造コスト」性・「低性能」性 9
 (2) 原子力の産業的実用化に向けた社会的スタートアップ問題 11
 (3) 被爆国日本における原子力発電の社会的受容に関する、科学・技術の「両刃の剣」論の歴史的役割 14
  a. 「科学・技術の二重性」論と「科学・技術の善用・悪用」論の融合としての、原子力の「平和」的利用論 14
  b. 科学・技術に関する「両刃の剣」論としての、「二重性」論および「善用・悪用」論 18
  c. 科学・技術に関する「両刃の剣」論と「東洋道徳・西洋芸術」論の理論的親和性 19
  d. 科学・技術に関する抽象的な「両刃の剣」論による原子力発電の社会的正当化 21
  e. 科学的知識、技術学的知識、技術的知識、製品の区別と連関という視点からの、「両刃の剣」論に関する批判的考察の必要性 21
  
3. 原発実用化前の原発推進論の歴史的展開を分析するための便宜的時期区分、および、対象資料 24
 (1) 産業的利用可能性が抽象的=理論的な段階における原子力への社会的注目 24
  a. ラジウム原子の放射性崩壊によって発生するエネルギー量の「巨大さ」の社会的意義の強調の背景的意図としての、自然科学的活動の社会的正当化 24
  b. ラジウム原子の放射性崩壊によって発生するエネルギーの社会的利用可能性に対する批判 — ラジウムの「希少性」、「精製コストの高さ」、「放射線被曝の危険性(取り扱いの危険さ)」に基づく批判 — 25
  
 (2) 原子力の現実的利用可能性の具体化に向けた歴史的進展 — 1930年代 26
  a. 人為的コントロールが可能な自然的プロセス発見の重要性 — エネルギーの動力化のための必要条件 26
  b. 中性子を衝突させることによる、原子核分裂現象の発見に向けての歴史的動き 27
  c. ウラン235の原子核分裂による発生エネルギー量の巨大さ、および、連鎖反応に関する科学的認識の形成 27
  d. ウラン235濃縮技術の開発、および、原子炉の臨界の実現 28
  
 (3) 産業的利用可能性が具体化しつつある段階における原子力への社会的注目— 1940年代前半~1950年代前半 29
  
4. 第二次大戦前の外国における原子力関連記事 31
 (1) 放射性物質が持つ原子力および原子エネルギーに関する初期の言説 31
 (2) 20世紀初頭のH.G.ウェルズのSF小説における原子力に関する言説 41
 (3) 1930 – 1940年代における原子力関連特許 43
 (4) 1939年における連鎖的核分裂反応に関する専門論文 44
 (5) 1940年代初頭アメリカの専門雑誌および専門書における原子力関連の記述 45
 (6) 1940年代前半期アメリカの原子力関連の専門的資料 47
 (7) 1940年代前半期におけるアメリカの大衆科学雑誌における原子力関連記事 48
  
5. 第二次大戦前の日本における原子力関連記事 52
  日本軍における原子力研究 61
  1944年における「科学戦争」論的議論の中の、ウランの核分裂による大量エネルギー発生に関する議論/ 65
  
6. 原子力の「巨大さ」の象徴としての原子爆弾に関する、1944年-1945年前半の日本における新聞記事および雑誌記事 67
  a. 原爆に関連する1944年の新聞・雑誌記事 67
  b. 原爆に関連する1945年前半の新聞・雑誌記事 69
  
7. 第二次世界大戦後~1950年代前半期の海外における原子力関連の事項および文献資料 —- 海外における原子力の産業的利用論および「平和」的利用論 70
  a. 1945年の原爆投下後の原子力関連資料(1)—原子力の産業的利用に向けた戦後直後の動き 70
  b. 1945年の原爆投下後の原子力関連資料(2)—戦後の大衆的雑誌や新聞などにおける原子力の産業的利用に関連する記事 74
  c. 1946年の原子力関連資料 78
  d. 1947年の原子力関連資料 86
  e. 1948年の原子力関連資料 90
  f. 1949年の原子力関連資料 93
  g. 1950年の原子力関連資料 94
  h. 1951年の原子力関連資料 94
  i. 1952年の出来事および原子力関連資料 95
  j. 1953年の出来事および原子力関連資料 96
  k. 1954年の原子力関連事項 99
  l. 1955年の原子力関連資料 100
  
8. 第二次世界大戦後~1950年代前半期日本における原子力関連の事項および文献資料— 日本における原子力の産業的利用論および「平和」的利用論 103
 (1) 1945年8月~1950年代前半期の日本における原子力関連の記事や論文 103
  a. 日本への原爆投下に関わる終戦前の新聞記事 103
  b. 第二次世界大戦終戦当日の新聞記事 104
  c. 第二次世界大戦終戦翌日の1945年8月16日の新聞記事 106
  d. 1945年の原子力関連資料(2) — 1945年8月17日以降 109
  e. 原子力研究に関連する1945年GHQ指令および1947年極東委員会決定 113
  f. 1946年の原子力関連資料 114
  g. 1947年の原子力関連資料 127
  h. 1948年の原子力関連資料 135
  i. 1949年の原子力関連資料 145
  j. 1950年の原子力関連資料 153
  k. 1951年の原子力関連資料 160
  l. 1952年の原子力関連資料 165
  m. 1953年の原子力関連資料 175
  n. 1954年の事件および原子力関連資料 185
  o. 1955年の原子力関連資料 207
 
 (2) 「平和のための原子力研究推進」論と坂田昌一 246
  a. 「平和のための原子力研究推進」論 — 原子力工業を中心とする20世紀後半の産業発展という考え方、および、基本的条件としての原子炉 246
  b. 「平和のための原子」イデオロギーへの先駆的批判 248
  c. 「原子力発電=未確立技術」論 249
  d. 原子力研究が平和のためにのみ役立つことを保証するための、「公開、民主、自主の三原則」 249

 

 
 

1. はじめに 6

2. 原子力に関する英語参考文献目録 7

3. 原子力利用に関する、実用化前の社会的言説 9
 (1) 原子爆弾の「平和」的利用論 - 「平和的核爆発」論 9
  a. 日本における原子爆弾などの「平和」的利用論 11
  b. アメリカにおける原子爆弾の「平和」的利用 -プロウシェア・プログラム(Plowshare Program) 15
  c. アメリカにおける原子爆弾の「平和」的利用 -チャリオット計画(Project Chariot) 28
  d. ソ連における原子爆弾の「平和」的利用 30
 (2) 日本における初期原子力開発に関する証言および回想 33
 (3) 1950年代後半期日本における原子力の「平和」的利用、産業的利用に関する歴史的議論 43
  a. 原子力という語句をタイトル中に含む雑誌・新聞 43
  b. 単行本(その1) 56
  c. 単行本(その2) — 教養原子力講座シリーズ(6巻+別巻) 61
  d. 論文 62
 (4) 日本の電力会社関係者による原子力発電に関する1950年代における解説 64
  a. 東京電力関係者による一般雑誌における解説記事 64
  b. 東京電力の社内報における解説記事 64
  c. 東北電力関係者 68
  d. 関西電力関係者 69
  e. 電気事業連合会 69
  f. 電源開発株式会社 70
  g. 日本原子力発電株式会社 71
 (5) 日本の原子力発電所メーカーの社内報における原子力関係論文 72
 (6) 米国における原子力の軍事的利用 74
  a. 1945年以前における軍事的利用の歴史 74
  b. 戦後初期におけるアメリカの核戦略 74
 (7) 初期における原子力発電関係のGoodmanの著作 75
 (8) 米原子力委員会(AEC)の初代委員長リリエンソール関連 76
 (9) アイゼンハワー米大統領の1953年12月8日国連演説Atoms for Peace関連 79

4. 原子力利用に関する、実用化前の社会的言説に関する歴史的=社会的研究 80
 (1) 戦前および戦後初期(1945~1955)における原子力の産業的利用論・平和的利用論に関する歴史的=社会的研究 80
 (2) 戦後初期日本における原子力開発論に関する歴史的=社会論的研究 81

5. 原子力発電技術および原子力産業の歴史的展開 84
 (1) 原子力産業の歴史 84
 (2) 米国における原子力 86
  a. 米国における原子力政策 86
  b. 米海軍における原子力 86
  c. 米国における原子力発電開発および原子力産業 87
  d. 米国の原子力発電 - アメリカの上下両院合同原子力委員会(Joint Committee on Atomic Energy)関連 91
  e. 米国の原子力発電 – 米国原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)関連 92
  f. 米国の原子力発電 – 米国原子力規制委員会(NRC)による原子力規制の歴史 95
  g. 米国の原子力発電 – その他の英語文献[発行年順] 96
 (3) イギリスの原子力 99
 (4) フランスの原子力 103
 (5) ソ連の原子力 107
 (6) その他の国の原子力 111
  a. ドイツ 111
  b. 台湾の原子力 111
  c. 中国における原子力開発 111
  d. その他 111
 (7) 原子炉技術に関する歴史 112
  a. 原子炉技術に関する包括的歴史 112
  b. 軽水炉技術関連の歴史 114
  c. 沸騰水型軽水炉に関連する技術の歴史 115
  d. 加圧水型原子力発電所の蒸気発生器 115
  e. 再処理技術および高速増殖炉に関連する技術の歴史 115
  f. 原子炉関連要素技術の歴史的発展 – 原子炉用ジルコニウム合金に関連する技術の歴史 115
  g. 発電関連の要素技術の歴史的発展 –復水器に関連する技術の歴史 115
  h. 発電関連の要素技術の歴史的発展 –耐震設計問題 115
  i. 発電関連の要素技術の歴史的発展 –その他 116
  j. 原子力発電所の安全性と技術進歩 116
  k. 原子力発電の立地技術 116
 (8) 原子力の歴史関連の雑誌 117

6. 原子力関連機関の歴史 118
 (1) 日本の原子力関係機関 118
 (2) 国際原子力機関(IAEA, International Atomic Energy Agency)関連 119
 (3) 海外の原子力機関の歴史関連(その他) 121

7. 原子力発電の歴史的展開に関わる解説的記述およびトピック的記述 122
 (1) 原子力発電の歴史的展開に関する年表 122
 (2) 関係者による日本の原子力発電の歴史関連の記述 122
 (3) 「第4世代原子力発電システム」論 123
 (4) その他の関連資料 123

8. 原発事故論 - スリーマイル島原発 124

9. 原発事故論 - チェルノブイリ原発 128

10. 原発事故論 - 福島第一原発 133
 (1) 福島第一原発事故に関する報告書 133
 (2) 福島第一原発事故の原因論 133
 (3) 福島第一原発事故に関する論文・単行本 134
 (4) 福島第一原発事故を踏まえた今後の対応 136
 (5) 福島第一原発事故後の政策論 136
 (6) 福島第一原発事故の損害賠償問題 136

11. 原子力発電技術に関するデータ集・白書類・ハンドブックおよびデータベース 137
 (1) 原子力発電関連数値データ集 137
 (2) 原子力関連ハンドブック/白書類/新聞 137
 (3) 原子力事業関連データベース 139
 (4) 電気事業関連データベース 139
 (5) エネルギー関連ハンドブック/白書類 140
 (6) IEAによるエネルギー関連白書・報告書 141

12. 原子力発電に関する事故被害、リスク評価、「安全性=危険性」問題 144
 (1) 日本における大型原発事故発生時の被害推定 144
 (2) 原子力発電に関するリスク評価 - シビア・アクシデントに関するリスク評価 145
  a. 第1回ジュネーブ会議における報告 145
  b. 米国における原発事故の被害予測に関する1957年のブルックヘブン報告書WASH-740 146
  c. 米国における原発事故の被害予測に関する1975年のラスムッセン報告書WASH-1400 147
  d. 米国におけるシビアアクシデントに関する1990年のリスク評価報告書NUREG-1150 149
  e. リスク論に関する批判的検討 150
  f. 原子力推進派の安全性論 150
  g. 原子力発電の「安全性=危険性」問題 151
  h. 原発事故関連のその他の議論 152
 (3) 原子力の安全規制問題 152

13. 原子力発電に関する歴史的=社会的研究 154
 (1) 科学史的研究・技術史的研究・社会史的研究・科学社会学的研究 154
 (2) ジャーナリズム論的研究、メディア論的研究 158
 (3) 社会心理学的研究 160
 (4) 社会論的研究・政治学的研究 160
 (5) 原子力発電に関する経済学的議論 163
 (6) 原子力発電に関する経営史的研究 163
 (7) 電気事業経営史関連文献 164
 (8) 原子力発電に関する政治史的研究 164
 (9) 原子力発電と法律および法規制 165
 (10) 電力自由化と原子力発電 166
 (11) 原子力発電市場 166
 (12) 脱原発論・縮原発論に関わる経済的分析 166

14. 原子力発電技術および原子力に関わる政策 167
 (1) 日本における最近のエネルギー政策 167
 (2) 日本の原子力技術政策および原子力政策 167
  a. 原子力委員会の歴史関連資料 167
  b. 日本の原子力政策の歴史的分析 167
  c. 原子力政策関連文書 168
 (3) 海外の原子力技術政策および原子力政策 173

15. 原子力発電労働者の被曝問題 175

16. 原子力発電論争 175

17. 原子力推進派の論理 176
 (1) 行政機関における原子力発電推進論 176
 (2) 「地球温暖化」論視点からの原発推進論 176
 (3) 「国際貢献」論視点からの原発推進論 176
 (4) 推進派による原子力関連の解説およびイデオロギー的議論 177
 (5) 原子力開発の戦略 178
 (6) 技術者の立場からの原発推進論 178
 (7) 日本原子力学会関連 179

18. 原子力批判派の論理 180

19. 原子力問題関連の雑誌の特集号およびリスト 188

20. 放射線被曝/低線量被曝/内部被曝問題 194

21. 原子力発電コスト問題 195
 (1) 2010年までの原発コスト関連資料 195
 (2) 2011年以降の原発コスト関連資料 207
  a. 政府資料 207
  b. 批判的検討ほか 207
 (3) 核兵器関連コスト 208

22. 原発関連論文・記事・解説パンフレット・教材のWEB掲載サイト 209
 (1) 研究団体関連 209
 (2) 出版社関連 210

23. 原発関連資料・パンフレット 216
 (1) 原子力関連広報サイト 216
 (2) 原子力関連国際機関 219
 (3) 原子力関連の国際団体 219
 (4) 原子力関連の日本行政機関 220

24. 原子力関連COEプログラム 221

25. 原子力研究関連団体WEBページ/再生可能エネルギー研究団体WEBページ 222
 (1) 原子力関連歴史的資料 222
 (2) 原子力研究団体WEBサイト 222
 (3) 再生可能エネルギー関連WEBサイト 222

26. 原子力関連用語を解説したWEBサイト 223
 (1) 原子力発電用語の解説サイト 223
 (2) 放射線・被曝関連用語の解説サイト 223

27. WEB上の原子力関連教材 224

28. WEB上の辞典 224

29. その他関連資料 225
 (1) 福島第一原発事故関連の図解 225
 (2) 原子力関連動画サイト 225
 (3) クライメートゲート事件 –地球温暖化に関わる原子力発電批判論 225
 (4) 石炭火力発電技術関連 225

あとがき 226
 

 
1. はじめに 1
 (1) 原子力発電の営業運転開始後の社会的注目 —- 1970年代石油危機、1979年スリーマイル島原発事故、1986年チェルノブリ原発事故、20世紀末の地球温暖化問題、2011年福島第一原発事故 1
 (2) 本稿の構成 3
2. 原子力発電の社会的選択に関する歴史的視点からの考察 4
 (1) 技術の社会的選択の規定諸要因 — 「法」的要因、「政治」的要因、「経済」的要因、「社会意識」的要因 4
 (2) 「科学的可能性や技術的可能性」問題と「経済的メリットや政策的有用性」問題の区別と連関の視点からの立場分類 5
3. 原子力発電の歴史的=社会的形成の分析視点 5
 (1) 「自然科学」-「工学(技術を対象とする科学)」-「技術」-「製品」-「ビジネス(事業部間、企業間、産業間などの協調と競争)」-「国・地域(国間・地域間などの協調と競争)」 5
 (2) 社会的諸活動の相互的連関 — 原子力村問題(企業・政治・行政・研究者・技術者・マスコミのそれぞれの原子力発電関係者が構成する複合的ネットワーク)、科学イデオロギー、技術イデオロギー 5
 (3) 技術の選択主体や選択の場の差異による選択基準の差異 — 技術の社会選択の階層性・多重決定性 5
 (4) 「Module —> Product」視点(要素技術開発-技術統合-製品開発の相対的分離と結合) 5
 (5) 「System of Product」(広義) 間競争視点 5
4. 原子力発電事業を論じるためのエネルギー論関係の基本的データ 5
 (1) エネルギー自給率の歴史的推移 5
 (2) エネルギーバランス 7
6. 原子力発電をめぐる論争点(1) — 福島原発事故以前からある基本的な論点 9
 (1) 「地球温暖化」論 — 「地球環境に優しい優れた資源」「温室効果ガスの排出量を減少させる不可欠の手段」としての原子力発電正当化論 9
 (2) 「化石燃料資源の有限性」論 — 高速増殖炉擁護論 11
 (3) 「安定供給」論 — 「エネルギー安保」論 12
 (4) 「再生可能エネルギー」批判 15
   a. 主要エネルギー源としての量的不十分性 16
   b. 太陽光などの再生可能エネルギーはコスト高、風力は不安定かつ陸上の設置場所は限定されている 16
   c. 燃料電池擁護派への批判 —「燃料電池は,水素と酸素の化学反応で発電するため,大気汚染の心配がなく,地球温暖化の原因となる二酸化炭素も出さない」という主張に対する批判 16
 (5) トリレンマ問題論 — 「持続的経済成長」、「エネルギー安全保障」、「地球温暖化対策」の三者間のトレードオフ関係に対応する最良の技術的手段としての、原子力発電 17
 (6) 低リスク論(1) — 原子力発電事故による死亡リスクの相対的低さ 18
   a. ラスムッセン報告 18
   b. 大規模災害間の被害比較 19
   c. 健康上のリスクに関して、炉心損傷事故による放射線被曝のリスクは、自動車事故と同程度か、より少ない。 20
 (7) 低リスク論(2) — チェルノブイリ事故など実際の原発事故における死亡数の低さ 21
 (8) 低リスク論(3) — 軽水炉型原子炉の固有の安全性論 23
 (9) 低発生頻度論 — 原子力発電所事故の発生頻度の低さ 25
 (10) 低リスク論(4) — 低線量被曝の「無害性」論(しきい値論) or 「有用性」論 25
 (11) 「国益」論 — 「国際社会から公認されたウラン濃縮と再処理能力を有する唯一の非核兵器保有国」としての日本 25
 (12) 「必要悪」論 —原子力発電の「事故発生低確率」論に代わる推進論 25
 (13) 世界的な原子力発電の見直し — 2005年以降の状況(現大綱策定後の状況変化) 26
7. 原子力発電推進論(2) — 福島原発事故以後で注目されている擁護論 27
 (1) 合意形成論的対応 — 新たな国民の合意形成 27
 (2) 合意形成論的対応 — これまでの擁護論に対する社会的信用の低下・・・正当性に関する新しい主張の必要性 27
 (3) 合意形成論的対応 — 想定外論への反省/ゼロリスク信仰批判 — 「絶対安全」の誤謬の回避、確率論的リスク評価に基づく改善、および、対策ができていない残余リスクに対する社会的受容に関する合意形成(新たな受忍限度論) 28
 (4) 合意形成論的対応 – 社会全体としてのマクロなコスト=ベネフィット論の不適切性 29
 (5) 合意形成論的対応 – 社会的技術的複合問題としての原子力発電問題 29
 (6) 合意形成論的対応 – 「社会的=合理的態度論」・・・「リスクがゼロでないなら受入れられない」という一般国民の非合理的な態度への批判、科学的=合理的態度の「強制」論 29
 (7) 「ゼロリスク信仰」批判 — ゼロリスクは無理、科学技術の本質的随伴物としての危険性(「物質文明の光と影」論) 30
 (8) 「産みの苦しみ」論 — 最初から完ぺきな技術やシステムはない。過去の事故は社会の進歩にとっての「産みの苦しみ、育ての苦労」であり、我慢すべきものである 30
 (9) あらゆる事態に直面してもなお対応が可能な頑健な新システムの構築の必要性と可能性 — 安全確保に関する旧来の考え方の不適切性は反省すべきであるが、新たな管理運用体制の構築は技術的に不可能ではない 31
 (10) 思想論的対応 — 複雑系への工学的対応の必要性 — 還元主義的思考批判(reductionistic なものの見方の限界) 31
 (11) 技術的対応可能論 — 「技術的改良による安全度=信頼度向上」論 31
 (12) イデオロギー的対応 — 日本の原子力発電技術の技術水準の高さ論>日本の原子力発電技術による国際貢献論(福島事故以前から提唱されていた議論であるが、最近も強く主張されている) 36
 (13) 「優秀性」論 40
8. 「Alternative Technology」論的次世代原発論 40
 (1) 小型化・長寿命化を優先目標とする「Alternative」原子炉技術の開発 40
   a. 小型化・・・立地問題対策、海外進出対策 40
   b. 長寿命化 41
   c. キャンドル炉(candle燃焼方式炉) 41
   d. 鉛ビスマス冷却長寿命小型安全炉(LSPR)・・・ニュークリア・バッテリー 41
9. 増殖炉問題 42
10. 原子力発電批判論(1) — 伝統的批判 43
 (1) 「自主・民主・公開」論的視点からの批判 43
 (2) 「経済性・効率性」優先批判・・・「安全性軽視」・「基礎科学軽視」批判 43
 (3) 「技術的未熟性」「技術的不完全性性」批判  — 科学的可能性はあるが、技術的には未確立で未成熟な技術or不完全な技術である 43
 (4) 地震国日本における原子力発電所設置の危険性 43
 (5) 再処理問題/「核のゴミ」(廃棄物の最終処理)問題 43
 (6) 核物質の輸送プロセス・保管などに関わる危険性 43
 (7) 原子力発電の熱効率の低さ  — 大量の温排水問題 43
 (8) 再生可能エネルギーの無限性・・・化石燃料と同じく、ウラン燃料の本質的有限性 43
 (9) 「科学技術文明批判論」「物質文明批判論」—- 現代的科学技術文明が内包する「根本的欠陥」論 43
 (10) 「企業倫理論的責任」論 – 事故発生時の損害保険に入ることができないような事業や賠償責任を果たすことができない事業に取り組むべきではない(事業者責任を全うすることができない事業を行うべきではない) 44
 (11) 安全性確保のための投資を回避するための論理としてのリスク論 — 安全対策コストとリスクのバランスを考えることの問題点 44
 (12) リスク論批判 44
11. 原子力発電批判論(2) — 最近の批判論 45
 (1) 技術システム政策的対応 — 火力発電所・製鉄所などの技術的性能の国別不均等発展 45
 (2) 日本におけるプロフェッショナルな技術的専門家の不在 — 日本の原子力関係者はゼネラリストであり、全部中途半端で専門性が育たない(技術者論的不完全性論) 46
 (3) 「生みの苦しみ」論批判 46
12. 原子力発電コスト問題 47
 (1) 政府による最近の試算 47
 (2) コスト問題に関する議論の仕方 50
 (3) 発電コストに関する基礎的資料 52
13. 発電方式の比較評価のための視点 53
 (1) 発電方式別のライフサイクルCO2排出量 53
 (2) 総合的比較 53
14. 経済政策的脱原子力発電論(1) — グリーン技術に関する技術革新によるグリーン市場の創出 54
15. 福島原発事故の原因に関わる批判的検討 54
 (1) 「想定外」論批判(1) — 「日本の設計基準値の甘さ」批判 54
 (2) 「想定外」論批判(2) — 「万一の事態に対する対処策の不備」「安全軽視体質」批判 54
 (3) 「冷却材喪失事故(LOCA)の危険性」問題 — 原子核分裂を停止させても、核分裂生成物の放射性崩壊によって大量の熱が発生することへの対策の困難性 55
 (4) 福島第1原発の初期設計の問題点 57
  a. 元は海面から35mの高台の土地を、高さ10mまで削り取って建設 — 安全よりも、海水の効率的取水を優先した初期設計 57
  b. 非常用電源としてのディーゼル発電機の設置場所 57
16. その他の論点 57
 (1) 連系能力問題 57
 
原子力利用に関する批判的検討をテーマとした筆者の拙稿の初出一覧
  1. 佐野正博(2014)「原子力発電実用化前の原子力利用推進論:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介 Part 1」『技術史』(日本科学史学会技術史分科会)No.9, pp.1-249.
  2. 佐野正博(2016a)「技術史・技術論視点から見た原子力発電文献ガイド:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介Part 2-1」『技術史』No.10,pp.12-69.
  3. 佐野正博(2016b)「技術史・技術論視点から見た原子力発電文献ガイド:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介Part 2-2」『技術史』No.11,pp.22-81.
  4. 佐野正博(2017a)「技術史・技術論視点から見た原子力発電文献ガイド:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介Part 2-3」『技術史』No.12,pp.18-51.
  5. 佐野正博(2017b)「技術史・技術論視点から見た原子力発電文献ガイド:原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介Part 2-4」『技術史』No.13,pp.24-51
カテゴリー: ダウンロード可能資料, 原子力利用の批判的検討論, 原子力利用の正当化論 | 原子力利用に関する批判的検討のための資料紹介PDF(拙稿) はコメントを受け付けていません

原子力発電所数および発電量の歴史的推移1951-1986

原子力発電所数および発電量の歴史的推移1951-1986Char,N.L., Csik, B.J. (1987) “Nuclear power development:History and outlook – Events have changed the global prospects for nuclear power,” IAEA BULLETIN, 3/1987, p.20所収の表”Nuclear power growth:1951-86”

下記の表の数値には「中止された発電所や計画中断の発電所は考慮されていない」(Reactors cancelled or suspended are not considered)。
【下記の表のエクセルファイルはこちら

原子力発電所数および発電量の歴史的推移1951-1986
Nuclear power growth:1951-86


Construction starts Connections to the grid
Year Units GWe Units GWe
1951 1
1952
1953 2 0.1
1954 6 0.5 1
1955 3 0.1
1956 9 0.8 1 0.1
1957 12 1.5 1 0.1
1958 7 0.6 3 0.2
1959 6 0.9 5 0.3
1960 10 1 6 0.6
1961 6 1.1 2 0.1
1962 8 1.3 10 1
1963 5 1.4 7 0.4
1964 10 3 8 1.1
1965 10 3.5 9 1.6
1966 16 7.4 8 1.2
1967 23 15.2 10 2.1
1968 38 26.1 6 1.1
1969 17 12.7 11 3.5
1970 37 24.9 6 3.3
1971 22 16.1 16 7.3
1972 22 19.3 16 8.8
1973 23 18.3 20 12.5
1974 35 29.8 26 16.9
1975 40 38 15 10.2
1976 29 27.2 19 14.1
1977 15 14.5 18 13.3
1978 21 18.2 20 15.8
1979 21 19.7 8 7
1980 23 21.4 21 15.3
1981 12 11.6 23 20.4
1982 20 19.1 18 14.3
1983 20 14.5 23 19.1
1984 10 9.3 34 31.7
1985 13 9.9 34 31.8
1986 1 0.8 23 23.3

Note: Reactors cancelled or suspended are not considered

GWe = gigawatts-electric

カテゴリー: ダウンロード可能資料, 原発関連統計データ | 原子力発電所数および発電量の歴史的推移1951-1986 はコメントを受け付けていません

アインシュタイン=シラードの手紙(1939)

1939年に、アインシュタインとレオ・シラードはアメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手紙を送り、核分裂反応に基づくナチス・ドイツによる原爆開発の可能性について警告した。
この手紙のテキストおよび画像が下記で公開されている。

 

この手紙は、「マンハッタン計画のきっかけとなった」との評価が一般的であるが、Wellerstein(2014)は”But neither E=mc² nor the Einstein-Szilard letter were as central to the Manhattan Project’s success as people realize — either scientifically or historically.”[しかし科学的視点から見ても、歴史的視点から見ても、E=mc²もアインシュタイン=シラードの手紙も、マンハッタン計画の成功の中心的存在ではなかった。]とし、”The magnification of Einstein’s role was purposefully encouraged by the government in the immediate period after using the weapon. (And it was even a convenient myth for Einstein, as it magnified his own importance and thus potential influence.) “[アインシュタインの役割の誇張は、原爆使用の後になり、政府によって意図的に奨励されたものである。(そしてそれはアインシュタインにとって都合の良い神話でさえあった。)]と述べている。すなわちWellerstein(2014)は通説に対して、「多数の市民を殺傷した原爆投下に対する批判に対抗し、アメリカ政府による原爆開発の正当化をするために、アインシュタイン=シラードの手紙が後になって利用された」という趣旨の反論をおこなっている。

 

なおこの手紙の中で言及されている爆弾は、広島・長崎に実際に投下された飛行機に搭載可能な大きさのものではなく、もっと大型の爆弾であり、船で運んで港で爆発させることを想定したものであった。

This phenomenon would also lead to the construction of bombs, and it is conceivable—though much less certain—that extremely powerful bombs of a new type may thus be constructed. A single bomb of this type, carried by boat and exploded in a port, might very well destroy the whole port together with some of the surrounding territory. However, such bombs might very well prove to be too heavy for transportation by air.[このような現象は爆弾の製造につながるであろう。確実であるとまでは言えないが、極めて強力な新型爆弾が製造できるであろうと思われる。この種の爆弾を船で運び港で爆発させれば、たった一発でも港全体とその周辺の領土の一部を破壊することができるであろう。ただし爆弾は、あまりにも重すぎて飛行機で運べない可能性が極めて高い。]

カテゴリー: 原爆開発 | アインシュタイン=シラードの手紙(1939) はコメントを受け付けていません

仁科芳雄関連資料

公益財団法人・仁科記念財団のHPの中の仁科記念財団の出版物のページにおいて、下記著作を含め仁科芳雄関連資料が多数ダウンロード可能となっている。

カテゴリー: ダウンロード可能資料, 文献情報 | コメントする